イマヌエル・カントとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や思想も紹介】

イマヌエル・カントの年表

1724年 – 0歳「プロイセン王国に生を受ける」

ケーニヒスベルクのシンボルだったという、ケーニヒスベルク城。

馬具職人の四男としての誕生

イマヌエル・カントは、1742年の4月に東プロイセンの首都・ケーニヒスベルクにて生を受けました。父は馬具職人であり、四男としての誕生であったことが記録されています。

両親はルター派の経験主義を進行していたと言われており、カントが通ったというフリードリヒ校も、ルター派の教えに即した授業が行われていたようです。

1740年~1746年 – 16歳~22歳「ケーニヒスベルク大学で学ぶ」

当時はニュートンの影響で、自然哲学が大人気の学問となっていた。
出典:Wikipedia

ニュートンの自然哲学に興味を示す

ケーニヒスベルク大学に入学したカントは、ニュートンの影響で発展の真っ最中だった自然哲学に興味を持ち、ライプニッツやニュートンの自然哲学を専攻して学んでいくことになりました。

また、この時に哲学教授であるクヌッツェンからも影響を受けていたと目され、この時期にカントが経験した物事は、彼の生涯にわたっての着想の原型になったと言われています。

大学を去るように卒業

旺盛に研究を行っていたカントですが、父の死によって1746年に大学を去るような形で卒業しています。最近の研究では、父の死による学費の負担だけでなく、クヌッツェンに論文を認めてもらえない不満も、この卒業の原因だったと推測されているようです。

卒業後のカントは、7年ほど表舞台から姿を消しており、ケーニヒスベルク郊外で家庭教師をしながら糊口を凌ぐ暮らしをしていたと言われています。

1755年 – 31歳「本格的に哲学の道に踏み入れる」

『火について』という論文で、カントは哲学の道へと踏み出したとされる。

哲学者カントの誕生

4月、カントはケーニヒスベルク大学に論文『火について』を提出し、6月に修士学位を取得。その後の9月には『形而上学的認識の第一原理の新解明』を公開討議に持ち込んで認められ、彼はケーニヒスベルク大学の私講師(現在で言う非常勤講師のようなもの)として、職業としての哲学者の道に足を踏み入れることになりました。

教授職に手が届くも…

ケーニヒスベルク大学の私講師となった翌年、カントは大学の論理学・形而上学教授の職を得るために論文『自然モナド論』を提出。

この論文も認められ、彼の教授職就任はほぼ内定しかけましたが、同時期に開戦した七年戦争に伴う財政的理由で、教授職の募集が中止。これによってカントは教授職にあと一歩手が届かず、私講師のまま大学で教鞭をとることになってしまいました。

1770年 – 46歳「論理学・形而上学の教授職に就任」

カントと手紙のやり取りをしていたという、ヨハン・ハインリヒ・ランベルト。

理性批判までの長い道のり

ケーニヒスベルク大学の私講師として多忙な日々を送っていたカントでしたが、後に彼を代表する論文となる『純粋理性批判』の原型は、長い年月をかけて少しずつ形となっていきました。

記録上は、1765年の『1765-66年冬学期講義計画公告』や、ヨハン・ハインリヒ・ランベルトとの書簡の中に批判哲学の原型と思しき言葉が残っており、彼の哲学が長い時間をかけて思考され抜いたものであることを示しています。

また、1770年までの期間中、彼は他の大学での教授職就任の誘いも受けていますが、それらを全て固辞。1769年には「『純粋理性批判』につながる”大きな光”が与えられた」と残しており、実績こそさほどないものの、教授職に就任するまでの間は、彼にとって非常に重要な期間でした。

フリードリヒ大学の論理学・形而上学教授に就任

そして1770年、カントはついにフリードリヒ大学の論理学・形而上学教授に就任。

就任に当たっての論文である『可感界と可想界の形式と原理』も出版され、その論文中には明確に、彼の批判哲学の原型が宿っていることが確認されています。

1781年 – 57歳「『純粋理性批判』の出版」

現在でこそカントを代表する論文である『純粋理性批判』だが、当時の反響は意外にも…。

『純粋理性批判』

構想段階から考えれば20年以上の時を経て、後にカントを代表することになる論文『純粋理性批判』が発表、出版されたのがこの年です。

教授就任から出版までの10年間でも、カントは着々と大学内での地位を高めていたことが記録され、1776年には哲学部の部長に、1780年には大学の評議員になっていることが記録されています。

『純粋理性批判』への反響

こうして出版された『純粋理性批判』でしたが、当時の哲学者らからの反響は良いものではなく、むしろカントは多くの哲学者からの批判に晒されることになりました。

そのため彼は1783年に出版した『プロレゴーメナ』や『純粋理性批判』の第2版「観念論反駁」の中で、それら批判に対して半鐘を行わざるを得なかったと言われています。

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