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日英同盟とは?内容や結ばれた理由、復活の可能性も分かりやすく解説

「日英同盟ってなぜ締結されたの?」
「海外の反応はどうだったのかな?」
「最終的に破棄されたのはなぜだろう…」

日本とイギリスが対等な立場で結んだ条約「日英同盟」は、日本にとっては初の軍事同盟であり、イギリスにとってはそれまでの「光栄ある孤立」(いずれの国とも同盟関係を結ばない外交方針)を変更する画期的な条約でした。

今回は、「日英同盟」をテーマに、条約を結ぶまでの歴史的な経緯と目的、内容と第三国の反応、さらに日英同盟のその後についてを解説したいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

日英同盟を簡単に解説すると?

英国艦隊を歓迎する絵葉書
出典:絵葉書資料館

日英同盟は、ロシア帝国の極東進出政策に対抗するため、日本とイギリスの間で1902年1月30日に結ばれた条約です。その後、1904年に起きた日露戦争を挟んで、第二次日英同盟(1905年)、第三次日英同盟(1911年)と更新されました。第一次世界大戦後の1921年、ワシントン海軍軍縮会議により四か国条約が結ばれるとその役割を終え、1923年8月17日に失効しています。

日英同盟が結ばれた理由は?

ひと言でいえば、当時のイギリスが大国ロシアの南下政策を防ぐ上で同盟を考えたとき、もっともふさわしい国が日本であったことが理由です。以下、南下をめざすロシアの恐ろしさと列強の中国分割状況、ドイツ・イギリス・日本の三国の思惑について解説します。

大国・ロシアの恐ろしさ

ロシア膨張政策のキーワードは「凍らない港」

ロシア南下政策はユーラシア大陸全般に及んだ

18世紀、ロシア帝国の南下政策はロマノフ朝において本格化しています。領土は広大なのに、長い冬に凍ってしまい使えない港が多いロシアでは「凍らない港」の獲得が国家的課題でした。

最大の焦点となったのは黒海・バルカン半島です。19世期、ロシアはオスマン帝国に対してクリミア戦争、露土戦争をおこしますが、結果として地中海に出るルートを奪うには至りませんでした。

他方、カスピ海方面に侵攻して二度にわたりイラン・ロシア戦争をおこしたり、中央アジア方面に侵攻してハン国を支配下に治めたりしています。こうしたロシアの南下政策は、スエズ運河やインドでの権利を守りたいイギリスとの間で摩擦となりました。

ロシアによる中国・極東侵略の流れ

中国東北部、黒竜江周辺からロシアの中国侵略がはじまる

ロシアによる中国侵略のきっかけとなったのが、清国(当時の中国)とイギリス・フランス間によるアロー戦争です。1858年、混乱に乗じてロシアは清国とアイグン条約を結び、ロシアは黒龍江左岸(地図でいうと右上)を領土にしています。また、1860年にアロー戦争が終結する折には、ロシアも清国と北京条約を結びました。あらためて黒竜江左岸をロシアの領土であることを確認しつつ、新たに沿海州をロシアの領土としています。

1895年、日清戦争後の下関条約により遼東半島が日本の領土になります。すると、ロシアはフランス・ドイツとともにこれに反発し返還を迫りました(三国干渉)。日本はやむなく遼東半島を清国に返還します。1898年、ロシアは清国から三国干渉の見返り等として、遼東半島の旅順・大連を借りることに成功したのでした。

その後ロシアは旅順に軍港要塞を設けロシア艦隊の拠点とし、大連には鉄道を敷いて東清鉄道と結びます。極東への軍隊や物資の輸送に活用するため、ロシアは東清鉄道とシベリア鉄道をつなぎたいと考えていました。

各国の極東政策(イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ)

日清戦争、三国干渉を経て列強に分割される中国

日清戦争後、列強各国は中国の分割支配を加速させます。「眠れる獅子」と怖れていた中国が、日本にも負けてしまうほど弱っていることを目の当たりにしたためです。各国の動きを簡単にまとめると次のようになります。

もっとも早く中国侵略をはじめたのがイギリスです。アヘン戦争後の1842年に南京条約を結び香港を領土としたほか、アロー戦争後の1860年には北京条約を結び九龍半島南部を領土としました。その後、日清戦争で清国が敗退すると、賠償金の支払いに苦しんでいる清国を助ける口実で資金提供を行います。その代わりに、1898年イギリスは威海衛及び九龍半島北部を獲得したのでした。

フランスは清仏戦争後の1895年に鉄道や鉱山についての権利を認めさせ、雲南・広東・広西の支配を強めています。また、1898年には広州湾を占領しその後99年間借りることを清国に認めさせました。

ドイツは1898年の宣教師殺害事件を口実として膠州湾を占領し、そのまま99年間借りることを認めさせています。その間に青島港を築いて艦隊を駐留させたほか、鉄道敷設権、鉱山採掘権を根拠に山東半島を勢力圏としています。

アメリカは中国進出に出遅れ、1899年に国務長官のジョン・ヘイが門戸開放通牒を発し、中国国内での経済的な機会均等を主張するに至りました。翌1900年には中国の領土保全もあわせて主張しました。

ドイツの仲介とイギリス・日本の利害の一致

ドイツによる仲介

ドイツ帝国最後の皇帝となるヴィルヘルム二世

日英同盟のため、日本とイギリスの間をとりもったのは、ドイツでした。ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世はイギリス国王・エドワード7世に、ドイツ宰相・ビューローもまた駐英ドイツ大使を通じてイギリス外相・ランズダウンに対し日英同盟の必要性を説いています。

ドイツにとって日英同盟は、ロシアの矛先を極東に向けさせ、イギリスを日本と組ませることでロシア・フランスと対立させるなど、ドイツの安全を考える上でメリットがあると思っていたのです。

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