日英同盟とは?内容や結ばれた理由、復活の可能性も分かりやすく解説

日英同盟締結を公表!そのときドイツ、ロシアの反応は?

日英同盟を風刺するイラスト、ロシアが焼く栗(朝鮮)を取るよう仕向けられる日本

ドイツ:極東の平和維持に最も重要

ドイツ政府は、日本政府に対して次のメッセージを送っています。

ドイツ政府は、日英協約をもって極東の平和を維持し、かつこれを堅固なものとするために重要な機構であることを認める。清国・朝鮮の両国におけるドイツの利害関係はある程度にとどまることでもあり、ドイツは好意的な中立を守るつもりである。

ドイツは日英を結びつけただけに当然賛成の立場のはずですが、反応はどこかよそよそしく、あまり関わりたくないといった意図が滲んでいます。

ロシア:満足、ただし…

ロシア外相・ラムスドルフは、駐ロ日本大使と会見し「極東に戦闘が起こるなど想像できない」としつつも迅速な日本の通知・公表に好意を示しました。また、3月20日にはロ仏共同宣言においてフランスとともに以下の声明を発しています。

両国政府は、日英同盟の趣旨は極東の平和を維持し清国・朝鮮の両国の領土を保全することにあり、ロシア・フランス両国の政策とその目的を同じくするものであるから、満足である。(しかしながら)もし、ロシア・フランス以外の第三国が清国に対して侵略的行動を起こしたり、清国に新たな内乱が起き、その保全と自由が危地に陥り、ロシア・フランス両国の利益に脅威を受けるおそれがあるときは、互いに連携して利益擁護を講ずることを留保する。

社交辞令は貫きつつ、本音も漏らしています。とくに後段はいざというときはロシア・フランスが受けて立つぞという脅しのようにも受け取れます。

日英同盟締結後の流れ

ついに日露戦争勃発

日本海海戦時の連合艦隊

1904年2月、日本はロシアに対し宣戦布告を行いついに日露戦争に突入します。ここで日英同盟を結んだ効果が現れることになりした。以下、具体的に見てみます。

日露戦争と戦費調達

日露戦争の戦費については諸説ありますが、概ね20億円弱とされています。日本は苦心しつつも資金調達に成功します。この背景には、日英同盟の影響力がありました。

日露戦争の戦費は、とても国内で賄える額ではなく、総費用の1/3程度を海外から借りることが必要でした。そのため当時の日銀副総裁・高橋是清がイギリスへ渡り目標額の半分の募集に成功しています。また、残りの半分を引受けたのがユダヤ系アメリカ人の資本家・ジェイコブ・H・シフでした。

フランス参戦の回避

露仏同盟を報じるフランスの雑誌「Le Petit Journal」

ロシアは当時フランスと同盟関係にありました。日本は当然ながらフランスの参戦も予想しなければなりませんでしたが、実際にはフランスは参戦をしていません。原因のひとつは、日英同盟の第3条でした。つまり、フランスがロシアの味方として参戦すれば、今度はイギリスが日英同盟に基づき参戦することになるためです。

なお、開戦後フランスはイギリスと英仏協商を結んでいます。フランスにはロシアを応援することより、イギリスと手を結んでロシア・ドイツを警戒することの方が重要課題だったといえます。

イギリスの後方支援

バルチック艦隊の航路、その遠大な航行距離から「奇跡の航海」と呼ばれる

イギリスは、軍事面においても日本に協力をしています。ロシア艦隊は、イギリスの支配下にあるスエズ運河を通行できないばかりか、イギリス領を含む中立国からは港への立ち寄りも拒まれ、燃料である石炭の補給にも事欠くありさまでした。

また、アフリカ大陸を迂回しインド洋を横断する航路はあまりに長大にすぎ、南半球の気候に慣れないロシア水兵に著しい士気低下を招くことになりました。日英同盟が奏功したポイントと言えます。

日露戦争のさなか、日英同盟(第二次)を締結

イギリスが注目したのはインドの保全

日露戦争の戦況は、開始から日本優勢で推移していきます。これを知ったイギリス国内では同盟支持の声が強くなり、後押しをされるように1905年3月、はやくも継続についての準備協議がはじまりました。同盟を継続するだけでなく、強化しようというイギリス側の意向もあってのことでした。

というのも、イギリスにとって日露戦争は地方での戦争であって、重要なのはロシアの南下政策そのものへの対抗でした。満州・朝鮮半島が落ち着けば、次に手当が必要なのはインドだと考えていたのです。

ロシアばかりではありません。当時3C(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)政策とよばれたイギリス植民地政策に対抗するドイツでは、3B(ベルリン・ビザンティウム・バグダッド)政策がとられ競合相手となっていました。日本に活躍してもらおう、という目論見もあってのことでした。

1905年8月12日、第二次日英同盟が結ばれています。日本代表は林董(駐英大使)、イギリス代表はランズダウン(外相)でした。主なポイントは次の点です。

  • 同盟の適用範囲を東アジア及びインドに拡大
  • インドにおけるイギリスの権益、朝鮮における日本の権益を相互に承認
  • 第三国から攻撃された場合は軍事援助の義務を負う

日英同盟は、この第二次条約の締結により本格的な軍事同盟となりました。

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