日英の溝があらわに、日英同盟(第三次)を締結
その後、日本・イギリス両国間の関係は、少しずつ冷えてゆきます。日露戦争後のロシアは極東から西アジア・バルカン半島へと南下政策の目標を移しています。イギリスではドイツ、日本ではアメリカとの摩擦が表面化してゆくことになります。
日露戦争時にポーツマス条約で仲裁国となったアメリカでは、南満州における権益を日本に握られたことへの反発もあり、日本へのけん制からイギリスに接近する必要が生じます。またこの時期、イギリス・アメリカ間では双方の紛争を平和的に解決するための条約を結ぼうとする動きが活発になっていました。
1911年7月13日、第三次日英同盟が結ばれます。日本代表は加藤高明(駐英大使)、イギリス代表はエドワード・グレー(外相)でした。主なポイントは次の点です。
- 対象国からアメリカを除外した
- 韓国とインド国境に関する規定の削除
日英同盟は、この第三次条約の締結によりさらに10年の延長がなされました。
第一次世界大戦と日英両国の動向
1914年、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺されたサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦がはじまります。各国は戦争回避に尽力しますが、戦端が開かれると三国協商、三国同盟といった軍事同盟が発動し、戦線は瞬く間にヨーロッパ全土に拡大してしまいました。
日本は日英同盟に基づきドイツに対して宣戦布告。当初イギリスの参戦要請がありましたが、アメリカが反対したためイギリスは要請を取下げています。日本は戦闘地域を限定することでようやくイギリスの賛意をとりつけました。日本は参戦するとすぐに、ドイツが中国から借りていた膠州湾租借地と19世紀にスペインから得ていた南洋諸島を占領しています。
翌1915年、日本は中華民国・袁世凱政府に対し「対華21箇条の要求」を突きつけています。主な内容としては次のようなものでした。
- ドイツの権益を日本が引きつぐことを認めること
- 日本が中国から借りている旅順・大連について、期限を99か年延長すること
- 漢冶萍公司(中国最大の鉄鋼コンビナート)を両国の合弁事業にすること
- 沿岸の港湾と島を他国に譲渡・貸与しないこと
- 政治・財政・軍事顧問に日本人を就任させること(後に取下げ)
最後の項目は秘密条項としていましたが、中国政府が公開したため世界中に知られることになりました。アメリカ・イギリスなどの批判を受け、日本もやむなく取下げています。
一方、1917年にはイギリスをはじめ連合国からの要請を受け、日本海軍第一特務艦隊をインド洋及び喜望峰方面に、第二特務艦隊を地中海に、第三特務艦隊を南太平洋・オーストラリア東岸方面へ派遣しています。とりわけ第二特務艦隊の活躍はめざましく、兵員の輸送や連合国の船を守る任務で貢献しました。その結果、イギリス、フランス、ロシア、イタリアから中国及び太平洋のドイツ権益を獲得することを了承する旨の密約を得ています。
第一次世界大戦はその後、1917年からのドイツ潜水艦による無差別攻撃によりアメリカが参戦、革命によりロシア帝国が倒れ、1918年には同様にドイツ帝国が倒れ、11月に停戦に至りました。
日英同盟の廃棄
第一次世界大戦が終わると、世界中が反省モードにはいります。安全で平和な世界の構築をめざそうという流れができました。その中で、アメリカ・ウィルソン大統領により提唱されたのが国際連盟です。しかし、アメリカは議会での承認が得られず不参加に。第一次世界大戦の戦後処理は国際連盟ではなく、各国による条約(ワシントン会議)によることとなりました。
海軍軍備の縮小
各国が軍艦を制限なく増やした結果大きな戦争となったことへの反省から、1922年2月に各国の軍艦の数を制限するワシントン海軍軍縮条約が結ばれます。主力艦である戦艦・空母は10年間建造停止し、保有比率をイギリス:5、アメリカ:5、日本:3、フランス・イタリア:1.67とすることに決定しました。
中国に対する主権尊重・領土保全
1922年2月には、中国問題をテーマとする9か国(日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国)条約が締結されました。中国の主権尊重と領土保全に加え、かねてよりアメリカが主張していた門戸開放・機会均等を各国が認める形となります。あわせて関税に関する条約、山東問題に関する条約が結ばれ、日本が21箇条要求で獲得した山東省の権益は中国に返還されることになりました。
太平洋諸島は現状を維持
1921年12月には、太平洋諸島の領土問題をテーマとする4か国(日本、アメリカ、イギリス、フランス)条約が締結されます。これにより、太平洋諸島の各国領土は現状維持とされます。なお、この条約の中で日英同盟の廃棄が決定しました。
なぜ日英同盟は破棄されたのか
日英同盟が廃棄された主な原因は次の点にあります。
世界構造の変化
第一次世界大戦後の世界は、日英同盟を結んだ当時の情勢と大きく変わっていたことが影響しています。当時、日本をのみこむような勢いで南下を示してたロシアにもすでにその勢いはなく、イギリスにとって脅威であったドイツもまた帝政が崩壊し共和制に移行していました。
日本・イギリス相互の感情
日本とイギリス双方にとって、当初ほどの必要性がなくなっていた点が挙げられます。また、第一次世界大戦中の日本とイギリスのすれ違いにより両国間の感情が冷めていたことも一因です。例えばイギリスとしては第一次世界大戦中の日本の中国に対する要求を疑問に感じており、日本もまたイギリスの支持に不十分さを感じていました。
最大の要因はアメリカ
最大の要因は、アメリカの意向です。アメリカが対中国政策として主唱する門戸開放・機会均等を実現する上で、日本の満州支配が障害になるのではないかという不満がありました。ところが日英同盟がある限り、日本だけでなくイギリスにも気をくばる必要があったため、日英同盟の廃棄はアメリカにとっても喫緊の課題でした。
日英同盟は復活する?
日英同盟の失効は、四か国条約の批准書を交わした1923年8月17日でした。それからおよそ100年を経過し、いま再び「日英同盟」の復活がささやかれています。きっかけは2020年1月にイギリスがEUを離脱したことによります。
EUは、ヨーロッパを中心に27カ国が加盟する政治と経済を中心とする同盟で、ヨーロッパの秩序・安全保障、移動や通信の自由化、科学技術の分野での協力などにおいて大きなメリットがある一方、事情の異なる各国が参加しているために課題も多く、難民の受入れや地域間格差など解決すべき課題がたくさんあります。
EUを離脱したイギリスとって、日本との同盟が選択肢のひとつとして浮上しています。これが実現すれば日本にとっても、これまでのアメリカ最優先の外交政策を転換する機会となることは間違いありません。
参考文献
- 日英同盟--その成立と意義--(植田捷雄、HERMES-IR(一橋大学機関リポジトリ))
- 第三次日英同盟の性格と意義(村島滋、「科学技術情報発信・流通総合システム」(J-STAGE))
- 日英同盟と日本社会の反応1902-1904(1)~言論界の動向を中心として~(片山慶隆、HERMES-IR(一橋大学機関リポジトリ))
- 高橋是清の日露戦争--明治官僚の剛胆と運(拓殖大学学長・渡辺利夫、環太平洋ビジネス情報 RIM 2008 Vol.8 No.30)
- ワシントン会議日本政府訓令についての考察--日英同盟--(大畑篤四郎)
日英同盟に関するまとめ
今回は日英同盟に関して、条約を結ぶまでの歴史的な経緯と第1次から第3次条約までの内容の変更点についてご紹介しながら、廃棄するに至った原因や復活の可能性について考えてみました。世界史的な情勢の移り変わりから、しだいにその役割が変化していった日英同盟。当時の世界は、国家や民族といったものが非常に大きな問題となっていたことがわかります。
多くの国同士があるいは友好を結び、あるいは憎しみあうという構図は、残念ながら今もつづいています。その中で、洋の東西はあっても同じ島国である日本とイギリスは、本来は理解しあえる国同士ではないでしょうか。実際、日本とイギリスの間には共通点もたくさんあります。もし再び手を携えることができるのであれば、さきの世界大戦の反省に立ち武力に依存することなく、率先して世界平和を実現するような同盟であってほしいと願います。