ヴィルヘルム2世の残した言葉
私は貧者の王であることを欲する
労働者への社会政策を行ったときの言葉です。ヴィルヘルム2世の信念だったのでしょうが、その後の路線変更を考えると薄っぺらい言葉に感じてしまいます。しかし、労働者への社会政策を打ち出したのもまた事実です。
老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった
宰相ビスマルクを罷免したときにいったという言葉です。若くにドイツ皇帝となったヴィルヘルムは非常にやる気に溢れていました。しかし全てが空回りしてしまいました。
ヴィルヘルム2世の人物相関図
ヴィルヘルム2世にまつわる逸話
逸話1「カイゼル髭が世界で流行した」
ヴィルヘルム2世の独特な口ひげは「カイゼル髭」と呼ばれました。皇帝をカイザーということからその名がついたそうです。髭を左右に上げる髭は世界でも流行し、当時日本でもかなり流行ったそうです。しかし後年に権威を失ってしまった後は、「プロペラ髭」と揶揄されるようになってしまいました。
逸話2「同性愛者的な側面もあった」
ヴィルヘルム2世を巻き込んだ、側近の同性愛スキャンダル事件が起こっています。正確に言うと、皇帝も同性愛を直接行っていたという証拠は残っていませんが、同性愛的な嗜好を匂わせる事件が起こってしまいました。
事の発端は軍事大臣のヘーゼラー伯爵が、余興にチュチュを着てバレリーナに扮し、パ・スール(独舞、一人による踊り)を踊っている最中に心臓麻痺を起して倒れてしまったのです。この事故は皇帝と同性愛との密接な関わりを暗示するものとなってしまいました。
最終的にはこの出来事が世間に知られてしまい、果てにはドイツ軍の同性愛的行為の露見にまで至ってしまう事件となってしまったのです。そして皇帝と友人達のサークル「リーベンベルク円卓」はゲイ集団を意味する言葉となってしまいました。
ヴィルヘルム2世の生涯年表
1859年 – 0歳「皇太子フリードリヒの長男として誕生する」
1859年にプロイセン王子フリードリヒと、イギリス王女ヴィクトリアの長男として誕生します。フリードリヒは「逆子」で生まれたために、後遺症が残り左半身に障害がありました。幼少は母の影響もあり、厳格な教育を受けて育ちました。しかしインテリな母のヴィルヘルムへの評価は低く、障害のあるヴィルヘルムをひそかに嫌っていたといいます。
これが母への憎悪、ひいてはイギリスへの憎悪へと変わっていきました。母の愛情が薄かったことは、ヴィルヘルムの人格形成に大きく影響を及ぼしたといいます。
1880年 – 21歳「ホルスタイン公女アウグステと結婚する」
1880年に周囲の反対を押し切って、長らくドイツで排斥されていたホルスタイン公女アウグステと結婚しています。翌年には第一皇子ヴィルヘルムも誕生し、その後も子宝に恵まれ合計7人の子に恵まれました。
1888年 – 29歳「ドイツ皇帝・プロイセン王として即位する」
1888年に父フリードリヒ3世の崩御に伴い、ドイツ皇帝・プロイセン王として29歳で即位しました。ヴィルヘルムは自身が若くに皇帝になったことを運命的に捉えていたといいます。父の崩御を知ると、ポツダムの宮殿を囲み、母ヴィクトリアを幽閉しています。原因は批判的な意見を、イギリスや市民に漏らすのを恐れたからといわれています。