宰相ビスマルクを退任させる
1890年に政治方針で反りが合わなかったビスマルクを退任させています。この時にヴィルヘルム2世は、「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べ、これによって帝国主義的政策を展開していくこととなりました。しかし列強の既得権とぶつかるこれらの政策は、大英帝国やロシア帝国との関係を悪化させていきました。
独露再保障条約を拒否する
1890年、ビスマルク時代に結んだ独露再保障条約の更新期間になりましたが、更新を拒否しています。これはヴィルヘルムが、ロシアよりもオーストリアやルーマニアの関係を重視したからといわれています。しかし結果的にロシアに喧嘩を仕掛けるようなニュアンスとなり、ロシアとフランスを接近させてしまい、挟み撃ちにさせる可能性を与えてしまいました。
1891年 – 32歳「二月勅令が施行される」
1890年に日曜日労働の禁止、女性や少年の夜間労働・地下労働の禁止、労働者保護国際会議のベルリン開催の呼びかけなどの条項を含む労働者保護勅令の「二月勅令」が発せられました。この法令は「新航路」と呼ばれ、左派を懐柔し、労働者に政府を指示してもらいたいという意図があったといわれています。
1895年 – 36歳「三国干渉を日本に行う」
ロシアの怒りを買ってしまったドイツは、ロシアの視線を逸らせるために、独・露・仏で三国干渉を行っています。結果日本は清に遼東半島を返還しています。このことはやがて日露戦争へと発展する紛争となってしまいました。
1903年 – 43歳「3B政策に取り掛かる」
ヴィルヘルム2世は、オーストリアとオスマン帝国と同盟を結び、経済的統一を目指していました。その一環が鉄道を結ぶ「3B政策」です。しかしこれはイギリスの3C政策とぶつかり、英国の反感を買う原因となってしまいました。結局この政策は第一次世界大戦が起こり、実現されませんでした。
1914年 – 54歳「第一次世界大戦が勃発する」
オーストリアの皇太子が暗殺されたことにより、第一次世界大戦へと発展していきました。ドイツはオーストリアと同盟を組み、英・仏・露の3大国を敵に回してしまうことになってしまったのです。
1918年 – 58歳「ドイツ革命が起こり、オランダに亡命する」
大戦が長期化する中、ドイツ国内でヴィルヘルム2世の退位を迫る世論が強くなってきました。そして王政打倒の「ドイツ革命」がドイツ各地で起こり、収束不可能な状態に陥りました。ヴィルヘルムは退位しないと固辞していましたが、もはや通用せずオランダに亡命しました。そして亡命後1か月に退位署名に正式に署名をしています。
1941年 – 82歳「肺栓塞により死去」
オランダに亡命した後は23年間悠々自適に暮らし、かつての臣下を罵りながら自身が反省することは無かったといいます。オランダでも常に復位を望んでいました。しかし1933年に首相となったアドルフ・ヒトラーが反帝政復古派の為に、完全に望みは潰えています。そして独ソ戦が始まる直前の1941年に肺栓塞によってオランダで死去しました。葬儀はドイツ軍によって行われています。享年82歳でした。
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ヴィルヘルム2世についてのまとめ
いかがでしたでしょうか。筆者はヴィルヘルム2世といえば、「暗君」のイメージが強かったのですが、期待を裏切らず中々の「炎上体質」だったようだと再確認した次第です。「黄渦論」は言いがかりもいい所で日本もかなりとばっちりを受けているなと感じています。
かなり嫌な人ではあったらしいヴィルヘルム2世ですが、近しい人は「非常に純粋な人だった」という人もいます。環境で性格が形成されたことも大きかったのでしょう。生まれながらの皇帝だったヴィルヘルムは、考え方自体が庶民と大きく異なっていた結果、退位に至ったといえるのではないでしょうか。第一次世界大戦のきっかけを大きく作ったヴィルヘルム2世について少しでも知っていただけたなら非常に光栄に感じます。最後までお付き合いありがとうございました。