「ヴィルヘルム2世ってどんな人?」
「最後の皇帝ってどんな政治をしたんだろう?」
ヴィルヘルム2世は、20世紀の最後のドイツ帝国の皇帝です。ヴィルヘルム2世を最後にドイツの帝国制は廃止されました。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセンといいます。
ドイツ皇帝は、皇帝に権限が大きくあったために「世界で最も力のある玉座」といわれていました。そんなドイツ帝国のラストエンペラーとなったヴィルヘルム2世はどういった人物だったのか。ドイツ史を調べている筆者が解説していきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
ヴィルヘルム2世とはどんな人物か
名前 | フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン |
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誕生日 | 1859年1月27日 |
没日 | 1941年6月9日 |
生地 | プロイセン王国 |
没地 | オランダ国 |
配偶者 | アウグステ・ヴィクトリア |
埋葬場所 | オランダドールン城内霊廟 |
ヴィルヘルム2世の生涯をハイライト
1859年にプロイセン王都ベルリンで、父フリードリヒ王子と母ヴィクトリア妃の間に生まれました。第一王子だったために、皇嗣としてポツダムの宮殿で育てられています。ヴィルヘルムは幼少期に非常に厳格な教育を受けました。これがヴィルヘルムの人格形成に大きな影響を及ぼしたといいます。
そして1888年に29歳で、第3代ドイツ皇帝として即位しています。即位前は宰相のビスマルクを尊敬していましたが、先進的な新政を理想とするヴィルヘルムと保守的なビスマルクは段々反りが合わなくなってきます。そのため1890年にビスマルクを辞任させました。しかしすぐに危機が起きてしまいます。
ヴィルヘルム2世は独露再保障条約を拒否したため、ロシアとフランスが接近します。このためにドイツが挟み撃ちにされる可能性がでてきました。そして焦ったヴィルヘルム2世は、ロシアの目をドイツから逸らすための日清戦争に勝利した日本への三国干渉を行います。このことが結果的に日露戦争へと発展する事態にまで発展してしまいました。
ヴィルヘルムはやることなすこと悪いほうに働き、南アフリカで起きた事件の失態を喜び、反乱者にエールを送るようなことをした為に、イギリスのヴィクトリア女王の怒りを買ってしまったりもします。その為訪英拒否を受けたりしました。
その他にも各国を怒らせ続けますが、第一次世界大戦が勃発し、ドイツの敗戦が濃くなるとオランダに亡命をしてしまいました。そして1918年にドイツ革命が起き、ドイツ皇帝とプロイセン王を廃位させられます。その後も亡命先のオランダで過ごし、1941年に死去しています。享年82歳でした。
3B政策を計画した
ヴィルヘルム2世は3B政策と呼ばれるベルリン・ビザンティウム・バグダッドを鉄道で結ぶ計画を立てました。この計画はドイツがオーストリア・オスマン帝国と手を結び、経済的な統合を図ることを目的としていました。
しかし同じく南下を目論むロシア帝国や3C政策を行うイギリスと対立を深めてしまうことになってしまいました。特にイギリスとドイツは、お互い妥協せず対立は深まるばかりであり、第一次世界大戦に続くフラグを一つ立ててしまうこととなりました。
3B政策とは?どこの国で何の目的で行われた?【経緯からその後の影響まで詳しく紹介】
帝国主義を目指していた
ヴィルヘルム2世は「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説し、積極的な世界政策を展開しました。その一つが「建艦競争」です。イギリスと対抗できる海軍力の建設を進めたのです。
ドイツの建艦対策は当然イギリスを刺激し、両国で激しい建艦競争が行われることとなりました。この競争は泥沼化し、ドイツが4艦作るならばイギリスは8艦といった具合に競争は激しくなっていき、その状態で第一次世界大戦へ突入することとなりました。