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ヴィルヘルム2世とはどんな人?生涯・年表まとめ【対外政策や名言も紹介】

「ヴィルヘルム2世ってどんな人?」
「最後の皇帝ってどんな政治をしたんだろう?」

ヴィルヘルム2世は、20世紀の最後のドイツ帝国の皇帝です。ヴィルヘルム2世を最後にドイツの帝国制は廃止されました。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセンといいます。

ヴィルヘルム2世

ドイツ皇帝は、皇帝に権限が大きくあったために「世界で最も力のある玉座」といわれていました。そんなドイツ帝国のラストエンペラーとなったヴィルヘルム2世はどういった人物だったのか。ドイツ史を調べている筆者が解説していきます。

ヴィルヘルム2世とはどんな人物か

名前フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン
誕生日1859年1月27日
没日1941年6月9日
生地プロイセン王国
没地オランダ国
配偶者アウグステ・ヴィクトリア
埋葬場所オランダドールン城内霊廟

ヴィルヘルム2世の生涯をハイライト

父のフリードリヒ3世

1859年にプロイセン王都ベルリンで、父フリードリヒ王子と母ヴィクトリア妃の間に生まれました。第一王子だったために、皇嗣としてポツダムの宮殿で育てられています。ヴィルヘルムは幼少期に非常に厳格な教育を受けました。これがヴィルヘルムの人格形成に大きな影響を及ぼしたといいます。

即位間もないころのヴィルヘルム2世

そして1888年に29歳で、第3代ドイツ皇帝として即位しています。即位前は宰相のビスマルクを尊敬していましたが、先進的な新政を理想とするヴィルヘルムと保守的なビスマルクは段々反りが合わなくなってきます。そのため1890年にビスマルクを辞任させました。しかしすぐに危機が起きてしまいます。

ヴィルヘルム2世は独露再保障条約を拒否したため、ロシアとフランスが接近します。このためにドイツが挟み撃ちにされる可能性がでてきました。そして焦ったヴィルヘルム2世は、ロシアの目をドイツから逸らすための日清戦争に勝利した日本への三国干渉を行います。このことが結果的に日露戦争へと発展する事態にまで発展してしまいました。

ヴィルヘルムはやることなすこと悪いほうに働き、南アフリカで起きた事件の失態を喜び、反乱者にエールを送るようなことをした為に、イギリスのヴィクトリア女王の怒りを買ってしまったりもします。その為訪英拒否を受けたりしました。

ドイツ革命の革命軍

その他にも各国を怒らせ続けますが、第一次世界大戦が勃発し、ドイツの敗戦が濃くなるとオランダに亡命をしてしまいました。そして1918年にドイツ革命が起き、ドイツ皇帝とプロイセン王を廃位させられます。その後も亡命先のオランダで過ごし、1941年に死去しています。享年82歳でした。

第一次世界大戦の元凶といわれている

清を巡ってヴィクトリア女王とにらみ合うヴィルヘルム2世

ヴィルヘルム2世は、宰相ビスマルクの行ってきた協調外交路線でなく、「帝国主義」路線で各国に強気の姿勢をとりました。それにより、英・仏・露の反感を買い、それが結果として第一次世界大戦へと発展してしまっています。

世界で批判された代表的な話として、ヴィルヘルム2世とイギリス軍人の対談があります。イギリス軍人との対談において「ドイツで戦艦を作っているのは極東政策のため」など発言してしまったのです。これは日本の事を指しますが、当時は「日英同盟」が結ばれていたために、日本と戦うということは英国とも対戦することになります。思慮の足らない皇帝の発言に、ドイツ国民は愕然としたそうです。

清に出征するドイツ軍

このような失言や他国を刺激する政策が度重なり、第一次世界大戦が起きた時にはドイツは英・露・仏を敵に回してしまうことになってしまいました。

ヴィルヘルム2世の性格と考え方

母ヴィクトリア妃

ヴィルヘルム2世の性格は、母のヴィクトリアによると、「旅行しても博物館には興味を示さず、風景の美しさにも価値を見出さず、まともな本も読まなかった」「ヴィルヘルムには謙虚さ、善意、配慮が欠けており、彼は高慢で、エゴイストで、心がぞっとするほど冷たい」と評されています。

ヴィルヘルムが下絵を描いた「黄禍論」のイラスト(右手の仏陀が燃えているのが日本)

ただし母と仲が悪かった為に、完全に鵜呑みにすることはできませんが、非常に極端な考え方であったことは間違いありません。その代表的なエピソードが黄色人種の脅威を説く「黄禍論」の主張でした。『黄禍の図』を説く絵画の下絵を描いたのはヴィルヘルムです。ヴィルヘルムは画家に絵を描かせその複製を多数作り、ロシアの皇帝ニコライ2世や、ヨーロッパ王室、アメリカの大統領にも送りつけていたといいます。

ヴィルヘルム2世が怒らせた人は数知れませんがその中には、日本人外交官・石井菊次郎という人が、「余の外交官生活中ドイツのカイゼル・ウィルヘルム2世ぐらい嫌な人はなかった」と記しています。

ヴィルヘルム2世の功績

「『新航路』という政策をとったこと」

労働者保護勅令を描いた挿絵

皇帝位についたヴィルヘルムは、新政を行っていきます。女性の夜勤・日曜労働・13歳以下の児童労働・現物払いを禁止・16歳以下の人に対する労働時間を制限するなど、当時としては画期的な政策を打ち出しています。この政策は新聞で「新航路」と呼ばれるようになりました。

しかし「新航路」政策によって労働者が政府支持に転じると思っていたヴィルヘルム2世は、その効果をあまりに性急に求めたために効果が薄いと感じるようになり、次第に消極的になっていきました。そして社会政策から次第に「帝国主義」への政策に方向転換することになったのです。結果として「新航路」は終わりを迎えました。しかし中途半端ではあったものの、当時先進的な社会政策を一度行ったことは功績といえるでしょう。

ヴィルヘルム2世の残した言葉

ビスマルク宰相とヴィルヘルム2世

私は貧者の王であることを欲する

労働者への社会政策を行ったときの言葉です。ヴィルヘルム2世の信念だったのでしょうが、その後の路線変更を考えると薄っぺらい言葉に感じてしまいます。しかし、労働者への社会政策を打ち出したのもまた事実です。

宰相ビスマルクを罷免したときの挿絵

老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった

宰相ビスマルクを罷免したときにいったという言葉です。若くにドイツ皇帝となったヴィルヘルムは非常にやる気に溢れていました。しかし全てが空回りしてしまいました。

ヴィルヘルム2世の人物相関図

ドイツ王室とイギリス王室の家系図

ヴィルヘルム2世にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「カイゼル髭が世界で流行した」

「カイゼル髭」の閑院宮載仁親王

ヴィルヘルム2世の独特な口ひげは「カイゼル髭」と呼ばれました。皇帝をカイザーということからその名がついたそうです。髭を左右に上げる髭は世界でも流行し、当時日本でもかなり流行ったそうです。しかし後年に権威を失ってしまった後は、「プロペラ髭」と揶揄されるようになってしまいました。

都市伝説・武勇伝2「同性愛者的な側面もあった」

女装したまま死亡したヘーゼラー伯爵

ヴィルヘルム2世を巻き込んだ、側近の同性愛スキャンダル事件が起こっています。正確に言うと、皇帝も同性愛を直接行っていたという証拠は残っていませんが、同性愛的な嗜好を匂わせる事件が起こってしまいました。

事の発端は軍事大臣のヘーゼラー伯爵が、余興にチュチュを着てバレリーナに扮し、パ・スール(独舞、一人による踊り)を踊っている最中に心臓麻痺を起して倒れてしまったのです。この事故は皇帝と同性愛との密接な関わりを暗示するものとなってしまいました。

ヘーゼラー伯爵は「チュチュ」を着ていた

最終的にはこの出来事が世間に知られてしまい、果てにはドイツ軍の同性愛的行為の露見にまで至ってしまう事件となってしまったのです。そして皇帝と友人達のサークル「リーベンベルク円卓」はゲイ集団を意味する言葉となってしまいました。

ヴィルヘルム2世の生涯年表

1859年 – 0歳「皇太子フリードリヒの長男として誕生する」

フリードリヒ皇太子一家(左の子供がヴィルヘルム2世)

1859年にプロイセン王子フリードリヒと、イギリス王女ヴィクトリアの長男として誕生します。フリードリヒは「逆子」で生まれたために、後遺症が残り左半身に障害がありました。幼少は母の影響もあり、厳格な教育を受けて育ちました。しかしインテリな母のヴィルヘルムへの評価は低く、障害のあるヴィルヘルムをひそかに嫌っていたといいます。

これが母への憎悪、ひいてはイギリスへの憎悪へと変わっていきました。母の愛情が薄かったことは、ヴィルヘルムの人格形成に大きく影響を及ぼしたといいます。

1880年 – 21歳「ホルスタイン公女アウグステと結婚する」

アウグステ・ヴィクトリア公女

1880年に周囲の反対を押し切って、長らくドイツで排斥されていたホルスタイン公女アウグステと結婚しています。翌年には第一皇子ヴィルヘルムも誕生し、その後も子宝に恵まれ合計7人の子に恵まれました。

1888年 – 29歳「ドイツ皇帝・プロイセン王として即位する」

父フリードリヒ3世の棺の前に立つヴィルヘルム2世

1888年に父フリードリヒ3世の崩御に伴い、ドイツ皇帝・プロイセン王として29歳で即位しました。ヴィルヘルムは自身が若くに皇帝になったことを運命的に捉えていたといいます。父の崩御を知ると、ポツダムの宮殿を囲み、母ヴィクトリアを幽閉しています。原因は批判的な意見を、イギリスや市民に漏らすのを恐れたからといわれています。

宰相ビスマルクを退任させる

協調外交を行うビスマルクを退任させ、帝国路線に持っていった

1890年に政治方針で反りが合わなかったビスマルクを退任させています。この時にヴィルヘルム2世は、「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べ、これによって帝国主義的政策を展開していくこととなりました。しかし列強の既得権とぶつかるこれらの政策は、大英帝国やロシア帝国との関係を悪化させていきました。

独露再保障条約を拒否する

「ビスマルク体制」といわれロシアと協定を組みフランスを孤立させようとしていた

1890年、ビスマルク時代に結んだ独露再保障条約の更新期間になりましたが、更新を拒否しています。これはヴィルヘルムが、ロシアよりもオーストリアやルーマニアの関係を重視したからといわれています。しかし結果的にロシアに喧嘩を仕掛けるようなニュアンスとなり、ロシアとフランスを接近させてしまい、挟み撃ちにさせる可能性を与えてしまいました。

1891年 – 32歳「二月勅令が施行される」

「新航路」を描いた風刺画

1890年に日曜日労働の禁止、女性や少年の夜間労働・地下労働の禁止、労働者保護国際会議のベルリン開催の呼びかけなどの条項を含む労働者保護勅令の「二月勅令」が発せられました。この法令は「新航路」と呼ばれ、左派を懐柔し、労働者に政府を指示してもらいたいという意図があったといわれています。

1895年 – 36歳「三国干渉を日本に行う」

三国干渉により日本は遼東半島を返す条約にサインした

ロシアの怒りを買ってしまったドイツは、ロシアの視線を逸らせるために、独・露・仏で三国干渉を行っています。結果日本は清に遼東半島を返還しています。このことはやがて日露戦争へと発展する紛争となってしまいました。

1903年 – 43歳「3B政策に取り掛かる」

3B政策でオスマンまでの鉄道を結ぼうとした

ヴィルヘルム2世は、オーストリアとオスマン帝国と同盟を結び、経済的統一を目指していました。その一環が鉄道を結ぶ「3B政策」です。しかしこれはイギリスの3C政策とぶつかり、英国の反感を買う原因となってしまいました。結局この政策は第一次世界大戦が起こり、実現されませんでした。

1914年 – 54歳「第一次世界大戦が勃発する」

進軍するドイツ軍

オーストリアの皇太子が暗殺されたことにより、第一次世界大戦へと発展していきました。ドイツはオーストリアと同盟を組み、英・仏・露の3大国を敵に回してしまうことになってしまったのです。

1918年 – 58歳「ドイツ革命が起こり、オランダに亡命する」

オランダ亡命後のヴィルヘルム2世

大戦が長期化する中、ドイツ国内でヴィルヘルム2世の退位を迫る世論が強くなってきました。そして王政打倒の「ドイツ革命」がドイツ各地で起こり、収束不可能な状態に陥りました。ヴィルヘルムは退位しないと固辞していましたが、もはや通用せずオランダに亡命しました。そして亡命後1か月に退位署名に正式に署名をしています。

1941年 – 82歳「肺栓塞により死去」

ヴィルヘルム2世の霊廟

オランダに亡命した後は23年間悠々自適に暮らし、かつての臣下を罵りながら自身が反省することは無かったといいます。オランダでも常に復位を望んでいました。しかし1933年に首相となったアドルフ・ヒトラーが反帝政復古派の為に、完全に望みは潰えています。そして独ソ戦が始まる直前の1941年に肺栓塞によってオランダで死去しました。葬儀はドイツ軍によって行われています。享年82歳でした。

ヴィルヘルム2世の関連作品

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ヴィルヘルム2世 – ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」 (中公新書)

ヴィルヘルム2世の人生を、客観的に中立の立場で読み解いている一冊です。否定的な内容ばかりではなく、事実を知ることができる1冊です。

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【ゆっくり人物解説】ヴィルヘルム2世

ゆっくり人物解説シリーズのヴィルヘルム2世です。独特の語り口調で分かりやすく説明してくれます。まずどんな人かざっくり知りたいという人におすすめです。

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ヴィルヘルム2世についてのまとめ

いかがでしたでしょうか。筆者はヴィルヘルム2世といえば、「暗君」のイメージが強かったのですが、期待を裏切らず中々の「炎上体質」だったようだと再確認した次第です。「黄渦論」は言いがかりもいい所で日本もかなりとばっちりを受けているなと感じています。

かなり嫌な人ではあったらしいヴィルヘルム2世ですが、近しい人は「非常に純粋な人だった」という人もいます。環境で性格が形成されたことも大きかったのでしょう。生まれながらの皇帝だったヴィルヘルムは、考え方自体が庶民と大きく異なっていた結果、退位に至ったといえるのではないでしょうか。第一次世界大戦のきっかけを大きく作ったヴィルヘルム2世について少しでも知っていただけたなら非常に光栄に感じます。最後までお付き合いありがとうございました。

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