スペインの無敵艦隊とは?名前の由来や船の構造、敗因についても紹介

無敵艦隊に関わった重要人物

フェリペ2世

フェリペ2世。スコットランド女王メアリー・スチュアートを王位につけようと画策したがエリザベス1世に阻止されてしまう

フェリペ2世は、無敵艦隊の設立の関わったスペインの王です。さらにイギリスへ無敵艦隊を派遣した王でもあります。

1571年のレパノンの海戦に勝利したスペインは、最強の海軍を持つ国として有名になりました。また1580年にはポルトガル併合によって莫大な富を得て「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれる最盛期を迎えることとなります。

順調だったスペインですが、イギリスの女王にエリザベスがつくと事情が変わります。今まで親スペインだったイギリスは反スペインの国になってしまったからです。イギリスの反スペインはフェリペ2世にとって頭の痛い問題でした。

イギリスへの無敵艦隊派遣は、詳しくは後述しますがイギリスの反スペインな態度に耐えかねたのが理由です。

エリザベス1世

エリザベス1世。スペインの無敵艦隊の撃退はエリザベス伝説として後世に残った

エリザベス1世は、無敵艦隊と戦ったイギリスの王女です。1558年に王位を継承し、宗教改革を行ってスペインと敵対しました。

オランダ独立戦争を陰ながら支援するだけでなく、イギリスの財政難を補うために海賊を援助しスペインと戦わせていました。また、スペインの港や艦隊を襲撃して多大な戦果をあげた海賊フランシス・ドレイクを「ナイト」の爵位を与えました。

アルマダの海戦では国を守る兵士たちを激励するために、ティルベリーの演説を行いました。ドレイクらの活躍によりスペイン軍はイギリスの土を踏むことなく、エリザベス1世の名を高めました。

この戦いの後、セント・ポール大聖堂にはエリザベスに感謝の祈りを捧げる行列ができたといいます。

フランシス・ドレイク

フランシス・ドレイク。実は12人兄弟の長男だった

フランシス・ドレイクは無敵艦隊に勝利したイギリスの海軍中将です。

もともとは当時合法だった奴隷貿易で生計を立てていた船乗りだったのですが、航海の途中でスペイン軍の奇襲にあってしまい死にかけます。その出来事をきっかけに海賊となり、スペイン船を襲い始めました。

スペイン船から得た戦利品は当時のイギリスの国家予算を超えており、それをエリザベス女王に献上したことによりイギリス海軍へと迎え入れられます。

そういった経緯からアルマダの海戦では海軍中将という立場で参加し、小型船の機動力を活かしてスペインの無敵艦隊を翻弄。さらに火をつけた小型船をスペイン艦隊の中央に突撃させるなどの奇策を取りました。

結果、アルマダの海戦はイギリスの勝利で終わり、ドレイクは積年の恨みをはらすことに成功しました。

無敵艦隊の活躍と衰退

無敵艦隊編成のきっかけとなったレパントの海戦

レパントの戦い。連合国側はスペイン・ヴェネツィア・ジェノヴァ共和国を含む8ヵ国が参加した

レパントの海戦は1571年にギリシア西方沖で起こった、スペイン含む連合軍とオスマン帝国軍の戦いです。この戦いは連合軍が勝利し、主力の一角を担ったスペインの勢力を強め「無敵艦隊(アルマダ)」と呼ばれる大艦隊を編成するきっかけとなりました。

レパントの海戦とは?起こった場所や原因、結末を分かりやすく解説

レパントの海戦が起きた16世紀後半は、貿易の中心が地中海から大西洋に移る時代でした。当時新興国であったオランダやイギリスは、スペイン船が南アメリカから運ぶ銀を狙い、海賊行為を行っていました。

そこでスペインは海賊行為から船を守るために、大西洋方面の艦隊を貿易で得たお金で強化していきます。艦隊はみるみる成長していき、最強の海軍は無敵艦隊と呼ばれるまでに強大になっていきました。

無敵艦隊が出撃したアルマダの海戦

アルマダの海戦を描いた絵『無敵艦隊の敗北』

アルマダの海戦とは、1588年にドーヴァー海峡で起こったイギリスとスペインの戦いです。

この頃のスペインはイギリスに手を焼いていました。理由は大きく分けて2つです。

  • オランダの独立戦争を支援していた
  • 海賊を支援し、スペイン船を襲っていた

以上の問題を解決するべく、スペインのフェリぺ2世は無敵艦隊をイギリス制圧のために派遣しました。130隻の戦艦から構成される無敵艦隊に対して、イギリスは戦艦34隻と武装商船163隻(ほとんどが海賊船)で迎え撃ちました。

当初は国力で勝るスペインが勝つと思われた戦いですが、世界1周を成功させていたドレイクの経験と計略により、戦局は引き分けに終わります。それほどダメージのなかった無敵艦隊ですが、帰り道で遭遇した嵐によって大きく戦力を削がれたため敗北しました。

アルマダの海戦とは?原因や経緯、勝敗、その後の影響まで解説

このアルマダの戦いをきっかけに、スペインは衰退していきます。対して、制海権を得たイギリスは海洋帝国として繁栄するきっかけを掴みました。

無敵艦隊の敗因

船が大きすぎた

ドーヴァー海峡での海戦の進路。中央のばつ印が戦った場所。左上が船が難破した場所

無敵艦隊の敗因は、戦った海域の地形に対して船が大きすぎたことです。

ドーヴァー海峡は、大西洋のように広い海ではありません。むしろイギリス海峡の中でも最も狭い海でした。最も狭い場所は34kmほどしかなく、船体に対して海が狭かったため、スペインの船では小回りがききません。

このように、機動力に欠けていたスペインに対してイギリス海軍は、小型のガレオン船を使って縦横無尽にスペイン軍を翻弄しました。

また、戦術にも問題がありました。この頃の海戦は敵船に船をつけて人を送り込み、斬り合いで決着をつけていました。当然今回もそうなると思われましたが、予想に反し戦闘は大砲の撃ち合いとなってしまいます。

しかし、スペイン側の大砲は射程が足りず、イギリス側は大砲の威力が足りず、決着が付きませんでした。

機動力不足により接近戦に持ち込むことができず、天気が急変したためスペイン軍は撤退を余儀なくされたのです。

暴風雨

無敵艦隊に大打撃を与えた嵐についてフェリテ2世は「私は艦隊を人間に対して送ったのであり、神の風や波浪に対してではない」と語った

イギリス海軍に翻弄されたとはいえ、ダメージ自体は大したことがなかったスペイン。しかし、自国へ帰る途中に遭遇した暴風雨により、壊滅的なダメージを負ってしまいます。

この時代の船はほとんどが風に頼る帆船でした。暴風雨はそんな帆船にとって大敵です。さらにスペインの航海士はイギリスの海に不慣れで、うまく舵をとることもできませんでした。

結果、スペインの艦隊は船の損壊や食料・水不足によりスペインにつく頃には半数が脱落。なんとか帰国できた船もその半数が再使用に耐えられない状態でした。

日本で言うところの神風がスペインの敗因となったのです。

無敵艦隊に関するまとめ

無敵艦隊について紹介しましたが、いかがでしたか?最後に簡単にまとめます。

  • 無敵艦隊は130隻の軍艦で構成されたスペインの艦隊。名前はレパノンの海戦での活躍と、イギリスの皮肉が由来となっている
  • 無敵艦隊の敗因は、船が大きすぎたことと帰り道の暴風雨で艦隊が壊滅状態になったこと

本記事を書くにあたり、無敵艦隊について調べたのですが、イギリスが海賊を支援していたことには驚きました。海賊と言えば船を襲って金品を強奪する悪者のイメージがありますが、イギリスにとっては敵国を襲って、自国の財政難を解決してくれるありがたい存在だったのかもしれませんね。

この記事が無敵艦隊を知る手助けになれば嬉しいです。レキシルでは、他にも歴史上のさまざまな事柄について解説した記事があります。興味のある方はぜひご覧ください!

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