平清盛にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「平清盛は、常盤御前の美貌に目が眩み、強引に妾(めかけ)にした?!」
常盤御前は、源義朝の側室でした。しかし平治の乱で義朝が敗れてしまいます。義朝との間に3人の男の子がいた常盤御前は、清盛に自首し、子供達の命を助けてくれるよう頼みました。
絶世の美女として知られる常盤御前。清盛はその美しさに惚れこみ、自分の妾になるなら子供達の命を助けようと取引を持ちかけ、常盤御前はそれを受け入れたと言われています。そして清盛との間に娘が生まれたとの伝説もあるのです。
清盛が常盤御前とその子供たちを助けたのは、常盤御前への執着か、義朝への対抗心か。真偽のほどはわかりませんが、何の因果か、ここで助けた義朝の子がのちに源義経となって、平氏を追い詰めることになるのです。
都市伝説・武勇伝2「平清盛は、沈みかけた太陽をまた昇らせることができる男」
広島県呉市の南端にある警護屋と、対岸の倉橋島の間に、音戸の瀬戸と呼ばれる海峡があります。清盛は、浅瀬を掘って船の通り道を広げる工事を命じました。
日が沈みかけても掘削作業が終わらないのを見た清盛は、山の岩の上に立ち、金の扇を広げて夕日を招き返し、工事を1日で終わらせたというのです。
現在、音戸の瀬戸は公園として整備され、清盛が夕日を招くために立ったと伝説の残る日招岩もあります。太陽をも操れる男という逸話は、平清盛の絶大な権力を示しているとも言えます。
都市伝説・武勇伝3「平清盛の死因は”あつち死”!?」
平清盛の死因はいろいろな説があってはっきりしていませんが、平家物語には「あつち死」と書かれています。熱死、つまり「熱すぎて死んだ」ということでしょうか。
一週間ほどひどい高熱で苦しみ、体が熱くなりすぎて、水風呂に入れると水がすぐお湯になってしまうほどで、体からは黒い煙が上がっていたとか。
現代の医学的見解では、高熱の原因はインフルエンザ、髄膜炎、マラリアなどが考えられるようです。
平清盛の早見年表
平清盛は1118(永久6)年に生まれ、伊勢平氏の棟梁であった平忠盛の子として暮らし始めます。
1159年に起きた平治の乱以降、清盛は後白河上皇の信任を得るための活動を続け、ついに武士として初めて太政大臣の位に上りつめました。清盛だけでなく一族が出世し、平氏政権絶頂期を迎えます。
後白河法皇の近臣が平氏打倒のはかりごとをめぐらすも、失敗し処罰された事件です。
平氏によって排除された旧勢力の、平氏のに対する反発が大きくなってきたことに加え、平氏が法皇や院近臣と対立していることが表立って現れた事件となりました。
清盛の孫にあたる安徳天皇が即位しました。これにより清盛は天皇の外戚としての地位を手に入れ、平氏の専制的な政権が築かれます。しかしこれを平氏独裁の始まりと捉える人々も多く、それを止めようと平氏打倒の勢いは加速しました。
各地で平氏打倒の兵が挙がるも、収拾できないまま清盛は病死しました。
平清盛の具体年表
1118年 – 1歳「平清盛、誕生」
平清盛、伊勢(京都?)に生まれる
生まれた場所は伊勢もしくは京都という説が有力です。
伊勢国産品(現在の三重県津市産品)に清盛の父である平忠盛の生まれた場所と言い伝えられている忠盛塚があります。清盛も、忠盛と同じ伊勢で生まれたというのが伊勢生誕説です。
清盛の母が祇園女御もしくはその妹であったとするなら、白河院の愛妃であった祇園女御は京都にて清盛を産んだとも考えられます。京都市東山にある八坂神社には、清盛生誕の地という伝説があります。
実の父母どちらも正確なことはわかっていませんが、平忠盛の元で嫡子という立場で成長していきます。
清盛の幼少期は夜泣きがひどかったらしく、それを聞いた白河院が、夜泣きしても大事に育てて欲しいと歌を詠み忠盛に渡したと平家物語にあります。
清盛と同じ年に生まれた西行
1118年にはのちに歌人として名を馳せる西行も生まれています。出家前、佐藤義清と名乗っていた時には、北面の武士として清盛とともに鳥羽院に仕えていました。
大河ドラマでは二人が親友だという設定でしたが、清盛の修築した厳島神社に西行が参拝している記録が残っているので、交流があったことは確かなようです。
1129年 – 12歳「清盛、貴族の仲間入りを果たす」
清盛、従五位下に叙せられる
清盛は12歳にして多くの人が憧れる地位を手に入れました。この年に白河院は崩御していますが、清盛は白河院のご落胤だから異例の出世をしたという説もあります。
しかしこの背景には、平氏を取り巻く状況も影響していたと言えるでしょう。父忠盛は、武力はもちろん経済力も蓄え、朝廷を支えていました。白河院の信任が厚く、この年には山陽、南海の海賊討伐を成功させています。
清盛は平氏の嫡男として扱われていましたので、院が忠盛の働きに応えるために息子の清盛を出世させたという見方もできます。
1147年 – 30歳「祇園社乱闘事件」
清盛、流罪の危機に見舞われる
清盛が祇園社(八坂神社)に田楽を奉納しようと訪れた際に事件は起きました。
警備用に武装した家人がいたのを見た祇園社の人が、神域に武器を帯びて入ることに反発して小競り合いとなります。これが負傷者も出るほどの乱闘事件となり、祇園社は本寺であった延暦寺に訴え、延暦寺の衆徒が鳥羽法皇に忠盛と清盛を流罪に処すよう迫ったのです。
結局、鳥羽法皇が忠盛と清盛を全面的に擁護する姿勢をとったため、平氏には罰金刑を課したことで終わりましたが、順風満帆の出世街道を進んでいた清盛にとって、立ち止まるきっかけになる事件でした。
小説やドラマなどでは、清盛が神輿を射抜いたシーンがドラマチックに描かれていますが、混乱のさなかに郎党が慌てふためいて射た矢が偶然祇園社に刺さってしまったというのが実状のようです。
この当時、無理難題を主張しながら神輿を担いで強訴する僧兵たちに、院も武士も手を焼いていたのは事実なので、清盛がそれにしびれを切らして手を出してしまったというドラマの論理は説得力があります。また、この演出によって清盛の実行力が際立つとも言えます。
1153年 – 36歳「平氏の棟梁となる」
父忠盛の死去により、清盛が家督を継ぐ
忠盛には正室宗子との間に家盛という息子がいました。清盛は嫡子として扱われていましたが、正室の子であり有能だったという家盛の存在は、平家一門の中でも大きかったと想像できます。
その家盛が1149年に急死してしまいました。この時点で清盛は、将来的に自分が家督を継ぐ立場になることを現実のこととして捉えるようになったはずです。
1153年に平忠盛が亡くなり、清盛が正式に平氏の棟梁となりましたが、この前後から清盛の、平氏を率いる覚悟が見られるようになってきます。
清盛は祇園社乱闘事件の前年、1146年に安芸守に任ぜられ、瀬戸内の制海権を握ります。父忠盛の時代から、平氏は博多で日宋貿易を行い、その利益を元手に政治活動をしていました。清盛はその貿易を広げるための下地作りを始めたのです。
清盛の晩年には摂津大輪田泊まで宋船が入り、貿易が行われるようになります。また、1155年には清盛が大量に銅銭を輸入しました。貨幣経済となり商業活動が盛んになります。宋銭の普及は、日本経済に大きな影響を与えるようになりました。
1156年 – 39歳「保元の乱が起こる]
武士の力が世に示された保元の乱
保元の乱の背景にあるのは、崇徳上皇の、鳥羽院と後白河天皇に対する怒りです。
崇徳上皇は、建前では鳥羽院の子ですが、実父は白河院との風聞があり、鳥羽院から遠ざけられていました。しかしそれでも崇徳上皇は、我が子である重仁親王が次の天皇になるなら良いと考えていたのでしょう。
しかし鳥羽院は崇徳上皇の弟にあたる後白河天皇を即位させました。これにより、崇徳上皇は逆上します。また、天皇家の争いに加え、藤原摂関家でも家督争いが起きていました。この二つの家の問題に、平氏と源氏が武力を貸す形で関わったのが保元の乱です。
この乱は、鳥羽法皇の妃で天皇家の財産を握っていた美福門院が藤原通憲(信西)と組んで、摂関家の復権を狙っていた藤原頼長と、崇徳上皇を追い落とすために仕組んだものとも言われています。実際、保元の乱によって摂関家は没落し、信西が権力を得ました。
清盛は勝利した後白河天皇方についていました。平氏の武力を重くみた後白河天皇は、恩賞として清盛を播磨守に任じ、知行国4カ国を与えました。これにより、日宋貿易を瀬戸内へ引き込むための航路作りが進められます。
まだ当時は大宰府が貿易の舞台であったので、1158年に清盛が大宰府の実質的な長官である大宰大弐に任官すると、日宋貿易はますます盛んになります。
叔父、平忠正の斬首
保元の乱では、平氏として唯一、清盛の叔父にあたる平忠正が崇徳上皇側につきました。
その理由は、万が一、清盛が味方した後白河天皇方が負けたときに平氏の血を絶やさないためであるとか、忠正と清盛は仲が悪かったからなど、いろいろな説があります。
結果的に平忠正は敗者側の人間となり、斬首と決まりました。清盛が首をはねたと言われています。大河ドラマでは、清盛と忠正は心を通わせた上での処刑という話になっていました。涙なくして見られない名場面でしたね。
この時、忠正の息子たちも一緒に処刑されているのですが、長男であった長盛には娘がいて、宇都宮業綱に嫁ぎ、鎌倉時代の武将で歌人として知られる頼綱を産みました。
平氏は壇ノ浦の戦いで壊滅的な打撃を受けますが、皮肉なことに平氏の血としては忠正の系統が残る形になりました。宇都宮家は現在の天皇家に続く血筋です。
1159年 – 42歳「平治の乱が起こる」
源氏を率いる源義朝を抑えて、武士の棟梁になる
1158年、後白河天皇は息子の二条天皇に位を譲り、院政を始めました。政治の主導権を握っていたのは、学者として高い見識を持ち、妻が後白河上皇の乳母であった藤原通憲(信西)です。
清盛は武力と経済面から通憲を支えました。しかし、通憲の独裁は次第に周囲から反感を買うようになります。一方、保元の乱の勝利に貢献したはずの源義朝は、清盛よりも恩賞が少なく、くすぶった日々を送っていました。通憲を取り除きたい院近臣、藤原惟方と藤原信頼は、そんな義朝をそそのかして挙兵させ、後白河上皇と二条天皇を幽閉、通憲を自殺に追い込みました。
このクーデターが起きた時、清盛は熊野詣に出かけていました。知らせを受けて清盛はすぐに都へ戻り、巻き返しを図ります。惟方が信頼と対立し始めたのを聞くと、惟方を清盛側の内通者とし、二条天皇を清盛の屋敷へ脱出させ、後白河上皇は仁和寺に移りました。
信頼追討の院宣を手にして討伐の大義名分が整った状態で、清盛は義朝との合戦に挑み、勝利しました。信頼は斬首、義朝は逃げるも家人に捕まり謀殺されました。義朝の嫡男頼朝が伊豆へ流罪となるのはこの時です。
平治の乱を通じて、清盛は源氏を抑えて平氏が武家の棟梁であることを世に示しました。貴族の争いには武士の力が不可欠であることも明らかになります。
清盛は1160年、参議に任官しました。武士として初の公卿の誕生です。
1161年 – 44歳「後白河院との蜜月時代」
滋子が後白河院に嫁ぎ、皇子を出産
清盛の妻、時子の妹である滋子が後白河院に嫁いだことで、平氏一門の出世が加速します。
平治の乱以降、力を持ち始めた平氏に対して後白河院は快く思わないことも多かったようですが、賢い滋子が間に入ることで、後白河院と清盛は良好な関係を保つようになります。
この年、滋子はのちに高倉天皇となる皇子を産みました。平氏の血をひく皇子誕生は、今後の平氏の繁栄を決定づけることになりました。