1164年 – 47歳「蓮華王院本堂の創建と平家納経」
後白河院の意向で蓮華王院を造営
後白河院の勅願に応え、清盛が平氏の豊かな財力を使って建てたのが蓮華王院(三十三間堂)です。当時の建物は焼けてしまい、現在の三十三間堂は鎌倉時代に再建されています。
お堂の中にはご本尊のほか、1000体の等身大の観音立像が立ち並んでいます。清盛創建当時のものは、124体が今も残っています。
三十三間堂はお堂の外見も見事ですが、横長のお堂内に観音立像が整然と並ぶ風景は圧巻です。後白河院のためにこれほどのものを建てた平氏の絶大な経済力にも驚きますし、後白河院の信任に応えようとする清盛の姿勢も感じられます。
厳島神社に装飾経33巻を奉納
清盛は平家一門の繁栄を願い、法華経などを写経し、美しく装飾を施して平氏が篤く信仰する厳島神社に奉納しました。
平氏の一族が原則として一人一巻を担当し、書写したと言われています。繊細な絵画や金銀箔、水晶に金銀透し彫りの金具を使った軸首など見事なもので、平家納経と呼ばれ、今は国宝に指定されています。
大河ドラマでは、平家納経はこれまでの戦いで命を落とした人々への供養の思いも込めているとされていました。
奉納する厳島神社は、航海の守り神を祀っており、日宋貿易に力を入れている清盛としては大切なお社です。平家納経は清盛のあらゆる思いが込められたものだと想像できます。
1167年 – 50歳「太政大臣に就任」
平氏全盛の時代
清盛は従一位太政大臣に任官します。武家として初めての就任でした。息子の重盛をはじめ、平氏一族がこぞって高位高官にのぼります。平氏の全盛であることがわかる出世です。
ただ、太政大臣の職自体は政治の実権とは直接関わりがないため、清盛は3ヶ月で辞任しています。
1171年 – 54歳「徳子が高倉天皇の中宮となる」
平氏の朝廷内での基盤を固める入内
徳子は清盛の娘であり、高倉天皇は後白河院と滋子との間に生まれた皇子です。徳子が入内し皇子を産めば、その皇子が即位することで、清盛は外戚として事実上政治の最高権力者となるわけです。そのための布石となる、平氏にとって大事な一手でした。
1176年 – 59歳「建春門院滋子の死」
平氏の勢いが衰え始める
滋子は清盛が太政大臣に任官した1167年に女御となり、1168年に皇太后宣下を受けました。滋子の背後には平氏の武力と財力があったにせよ、後白河院が滋子をどれほど寵愛していたかがわかります。
滋子の死因は二禁(にきみ)と呼ばれる腫れものであったと言われています。後三条天皇の第三皇子で白河院の弟であった輔仁親王も、清盛の側近として活躍した藤原邦綱も、二禁を患って亡くなったと伝わっており、当時は死に至る人の多い病であったようです。
滋子という一人の女性のおかげでバランスを保っていた後白河院と清盛の関係は、滋子の死により徐々に険悪なものへと変化していきます。
1177年 – 60歳「鹿ヶ谷事件」
後白河院との対立が表面化
滋子が他界したことで、朝廷内の平氏に対する反感が高まり、ついに京都郊外の鹿ヶ谷で院近臣たちが平氏打倒を計画します。しかし密告によって失敗に終わり、関係者が処罰されました。後白河院が黒幕であることは明らかでしたが、不問にされました。しかし、この事件を通して清盛と後白河院との対立が深まっていきます。
鹿ヶ谷の陰謀に関わっていた俊寛は、薩摩鬼界ヶ島に流されます。
能で「俊寛」という演目がありますが、鬼界ヶ島で他の流人と共に過ごしていた俊寛の元に、都へ帰るための赦免船がくるものの、俊寛の名前だけは赦免状になく、都に戻れず島に残されるという悲劇が演じられます。
この能「俊寛」を元に近松門左衛門が書いた「平家女護島俊寛」は歌舞伎の演目です。この作品は俊寛が自らの意思で島に残ることを選ぶという結末になっていて、歌舞伎でも人気のある演目です。
17代目中村勘三郎が人生最後の舞台で演じたのがこの俊寛でした。
「互いに未来で(会おう)」という台詞を、共演していた息子の18代目勘三郎(当時は5代目中村勘九郎、2012年没。)に語りかけるシーンは、現実と虚構が混じり合い、観客にも歌舞伎関係者にも、強く記憶に残る舞台となりました。
1179年 – 62歳「後白河院との断絶」
長男、重盛の死と後白河院の院政停止
平重盛は、清盛の嫡男です。妻に院の近臣である藤原成親の妹を迎えていました。そのため、平氏にとっては滋子とともに武家と朝廷を結ぶパイプ役のような人です。滋子亡き後は重盛がその任を一身に背負っていたと考えられます。
重盛にとって、鹿ヶ谷事件は大きなショックでした。事件の首謀者であった藤原成親は義兄です。斬首にされて当然という状況の中、重盛の懇願により成親は流罪となりました。清盛は後白河院を幽閉しよう考えていました。それを諌めたのは重盛だったと言われています。
重盛について、武勇に優れて温厚な人と、多くの人が好意的な印象を書き残しています。そんな人だったからこそでしょう。鹿ヶ谷の事件によって重盛は体調を崩し、他界してしまいます。後白河院と清盛を繋いでいた人々がいなくなり、二人の関係は完全に破綻しました。後白河院を中心にした反平氏の動きが表面化したため、清盛はついに後白河院を幽閉、後白河院政は停止します
1180年 – 63歳「平氏打倒の動きが広まる」
以仁王の挙兵
後白河院を幽閉したことで、平氏は政権を完全に握ることになりました。しかし貴族、寺社、地方の武士たちが抱く平氏に対する不満は大きくなる一方でした。
1180年、高倉天皇が譲位し、安徳天皇が即位します。清盛の娘であった徳子の産んだ皇子が天皇になったのです。清盛は天皇の外戚として、政治の最高権力者となりました。
平氏にとっては喜ばしいことでしたが、この一件は同時に、このままでは平氏の専制政治が続いてしまうと、反平氏勢力が危機感を強めるきっかけにもなりました。そしてついに、後白河院の子である以仁王が、源頼政とともに平氏打倒の兵をあげたのです。清盛は直ちに攻撃し、頼政は戦死、以仁王も討ち取られます。しかし以仁王の決起を呼びかける令旨は諸国に広がり、多くの武士が立ち上がることとなりました。
平氏に対抗心を燃やしている源氏はもちろんのこと、各地の在地領主も内乱に加わります。国司や荘園領主に対抗して自分の所領の支配権を拡大したい在地領主にとって、平氏政権は邪魔な存在だったのです。
福原への強行遷都
清盛は突如、都を福原に移します。以仁王の挙兵を収めたことをきっかけのように遷都したため、延暦寺や奈良の寺社の圧力から逃れるために行った、京都では守りを固めるのが難しいため、逃げてきた遷都という考え方が一般的でした。しかし福原遷都は、清盛としては既定路線であったようにも考えられます。
日宋貿易を重視していた清盛にとって、大輪田泊が近い福原は、指示を下すのにとても良い場所でした。また清盛は、王朝勢力と現実的な距離を置くことで理想の政治が行えると考え、いつか福原に遷都しようと思っていた可能性があります。
大河ドラマではこの発想で福原遷都が描かれていました。どこまでも前向きな清盛の姿でしたね。
ただ、多くの人にとっては迷惑な遷都でした。福原は、まだ道路も完成していない、未完成の都市だったからです。結局6ヶ月で京都に還都することになります。
源頼朝が挙兵
以仁王の平氏追討の命に応えて、源氏も立ち上がります。その中でも義朝の嫡男、頼朝が兵を挙げた知らせは清盛にとって衝撃だったことでしょう。
頼朝は最初の石橋山の戦いでこそ敗れるものの、一旦安房に逃れ、源氏の旗のもとに平氏打倒の軍を集めて鎌倉に入ります。そして清盛の孫(重盛の息子)にあたる平維盛との一戦、富士川の戦いで勝ち、東国を手中に収めていくのです。
興福寺と東大寺の焼き討ち
武士のみならず、寺社も平氏に対して反乱を起こし始めます。清盛は、息子重衡を南都討伐に向かわせました。重衡は、東大寺、興福寺を焼き払います。僧俗1700人が焼け死んだと伝わっています。
犠牲者の人数が多いこともさることながら、鎮護国家の要であった東大寺と、藤原氏の氏寺である興福寺を焼き討ちにしたことで、貴族と寺社も平氏を見限ることになりました。
1181年 – 64歳「清盛、熱病に倒れる」
清盛の最期
年が明けて間もなく、長く病を患っていた高倉上皇が崩御しました。生母が建春門院滋子で、建礼門院徳子との間に安徳天皇をもうけた高倉天皇は、朝廷内でも平氏寄りの皇族として貴重な存在でした。高倉天皇の崩御は平氏にとって大きな痛手であったはずです。
そして清盛が病に倒れます。高熱に悩まされたとか、頭風(頭痛のこと)に苦しんだなどいろいろな説がありますが、病は悪化の一途をたどり、回復することはなく亡くなりました。
平清盛、伊勢(京都?)に生まれる
生まれた場所は伊勢もしくは京都という説が有力です。
伊勢国産品(現在の三重県津市産品)に清盛の父である平忠盛の生まれた場所と言い伝えられている忠盛塚があります。清盛も、忠盛と同じ伊勢で生まれたというのが伊勢生誕説です。
清盛の母が祇園女御もしくはその妹であったとするなら、白河院の愛妃であった祇園女御は京都にて清盛を産んだとも考えられます。京都市東山にある八坂神社には、清盛生誕の地という伝説があります。
実の父母どちらも正確なことはわかっていませんが、平忠盛の元で嫡子という立場で成長していきます。
清盛の幼少期は夜泣きがひどかったらしく、それを聞いた白河院が、夜泣きしても大事に育てて欲しいと歌を詠み忠盛に渡したと平家物語にあります。
清盛と同じ年に生まれた西行
1118年にはのちに歌人として名を馳せる西行も生まれています。出家前、佐藤義清と名乗っていた時には、北面の武士として清盛とともに鳥羽院に仕えていました。
大河ドラマでは二人が親友だという設定でしたが、清盛の修築した厳島神社に西行が参拝している記録が残っているので、交流があったことは確かなようです。
清盛、従五位下に叙せられる
清盛は12歳にして多くの人が憧れる地位を手に入れました。この年に白河院は崩御していますが、清盛は白河院のご落胤だから異例の出世をしたという説もあります。
しかしこの背景には、平氏を取り巻く状況も影響していたと言えるでしょう。父忠盛は、武力はもちろん経済力も蓄え、朝廷を支えていました。白河院の信任が厚く、この年には山陽、南海の海賊討伐を成功させています。
清盛は平氏の嫡男として扱われていましたので、院が忠盛の働きに応えるために息子の清盛を出世させたという見方もできます。
清盛、流罪の危機に見舞われる
清盛が祇園社(八坂神社)に田楽を奉納しようと訪れた際に事件は起きました。
警備用に武装した家人がいたのを見た祇園社の人が、神域に武器を帯びて入ることに反発して小競り合いとなります。これが負傷者も出るほどの乱闘事件となり、祇園社は本寺であった延暦寺に訴え、延暦寺の衆徒が鳥羽法皇に忠盛と清盛を流罪に処すよう迫ったのです。
結局、鳥羽法皇が忠盛と清盛を全面的に擁護する姿勢をとったため、平氏には罰金刑を課したことで終わりましたが、順風満帆の出世街道を進んでいた清盛にとって、立ち止まるきっかけになる事件でした。
小説やドラマなどでは、清盛が神輿を射抜いたシーンがドラマチックに描かれていますが、混乱のさなかに郎党が慌てふためいて射た矢が偶然祇園社に刺さってしまったというのが実状のようです。
この当時、無理難題を主張しながら神輿を担いで強訴する僧兵たちに、院も武士も手を焼いていたのは事実なので、清盛がそれにしびれを切らして手を出してしまったというドラマの論理は説得力があります。また、この演出によって清盛の実行力が際立つとも言えます。
父忠盛の死去により、清盛が家督を継ぐ
忠盛には正室宗子との間に家盛という息子がいました。清盛は嫡子として扱われていましたが、正室の子であり有能だったという家盛の存在は、平家一門の中でも大きかったと想像できます。
その家盛が1149年に急死してしまいました。この時点で清盛は、将来的に自分が家督を継ぐ立場になることを現実のこととして捉えるようになったはずです。
1153年に平忠盛が亡くなり、清盛が正式に平氏の棟梁となりましたが、この前後から清盛の、平氏を率いる覚悟が見られるようになってきます。
清盛は祇園社乱闘事件の前年、1146年に安芸守に任ぜられ、瀬戸内の制海権を握ります。父忠盛の時代から、平氏は博多で日宋貿易を行い、その利益を元手に政治活動をしていました。清盛はその貿易を広げるための下地作りを始めたのです。
清盛の晩年には摂津大輪田泊まで宋船が入り、貿易が行われるようになります。また、1155年には清盛が大量に銅銭を輸入しました。貨幣経済となり商業活動が盛んになります。宋銭の普及は、日本経済に大きな影響を与えるようになりました。
武士の力が世に示された保元の乱
保元の乱の背景にあるのは、崇徳上皇の、鳥羽院と後白河天皇に対する怒りです。
崇徳上皇は、建前では鳥羽院の子ですが、実父は白河院との風聞があり、鳥羽院から遠ざけられていました。しかしそれでも崇徳上皇は、我が子である重仁親王が次の天皇になるなら良いと考えていたのでしょう。
しかし鳥羽院は崇徳上皇の弟にあたる後白河天皇を即位させました。これにより、崇徳上皇は逆上します。また、天皇家の争いに加え、藤原摂関家でも家督争いが起きていました。この二つの家の問題に、平氏と源氏が武力を貸す形で関わったのが保元の乱です。
この乱は、鳥羽法皇の妃で天皇家の財産を握っていた美福門院が藤原通憲(信西)と組んで、摂関家の復権を狙っていた藤原頼長と、崇徳上皇を追い落とすために仕組んだものとも言われています。実際、保元の乱によって摂関家は没落し、信西が権力を得ました。
清盛は勝利した後白河天皇方についていました。平氏の武力を重くみた後白河天皇は、恩賞として清盛を播磨守に任じ、知行国4カ国を与えました。これにより、日宋貿易を瀬戸内へ引き込むための航路作りが進められます。
まだ当時は大宰府が貿易の舞台であったので、1158年に清盛が大宰府の実質的な長官である大宰大弐に任官すると、日宋貿易はますます盛んになります。
叔父、平忠正の斬首
保元の乱では、平氏として唯一、清盛の叔父にあたる平忠正が崇徳上皇側につきました。
その理由は、万が一、清盛が味方した後白河天皇方が負けたときに平氏の血を絶やさないためであるとか、忠正と清盛は仲が悪かったからなど、いろいろな説があります。
結果的に平忠正は敗者側の人間となり、斬首と決まりました。清盛が首をはねたと言われています。大河ドラマでは、清盛と忠正は心を通わせた上での処刑という話になっていました。涙なくして見られない名場面でしたね。
この時、忠正の息子たちも一緒に処刑されているのですが、長男であった長盛には娘がいて、宇都宮業綱に嫁ぎ、鎌倉時代の武将で歌人として知られる頼綱を産みました。
平氏は壇ノ浦の戦いで壊滅的な打撃を受けますが、皮肉なことに平氏の血としては忠正の系統が残る形になりました。宇都宮家は現在の天皇家に続く血筋です。
源氏を率いる源義朝を抑えて、武士の棟梁になる
1158年、後白河天皇は息子の二条天皇に位を譲り、院政を始めました。政治の主導権を握っていたのは、学者として高い見識を持ち、妻が後白河上皇の乳母であった藤原通憲(信西)です。
清盛は武力と経済面から通憲を支えました。しかし、通憲の独裁は次第に周囲から反感を買うようになります。
一方、保元の乱の勝利に貢献したはずの源義朝は、清盛よりも恩賞が少なく、くすぶった日々を送っていました。通憲を取り除きたい院近臣、藤原惟方と藤原信頼は、そんな義朝をそそのかして挙兵させ、後白河上皇と二条天皇を幽閉、通憲を自殺に追い込みました。
このクーデターが起きた時、清盛は熊野詣に出かけていました。知らせを受けて清盛はすぐに都へ戻り、巻き返しを図ります。惟方が信頼と対立し始めたのを聞くと、惟方を清盛側の内通者とし、二条天皇を清盛の屋敷へ脱出させ、後白河上皇は仁和寺に移りました。
信頼追討の院宣を手にして討伐の大義名分が整った状態で、清盛は義朝との合戦に挑み、勝利しました。信頼は斬首、義朝は逃げるも家人に捕まり謀殺されました。義朝の嫡男頼朝が伊豆へ流罪となるのはこの時です。
平治の乱を通じて、清盛は源氏を抑えて平氏が武家の棟梁であることを世に示しました。貴族の争いには武士の力が不可欠であることも明らかになります。
清盛は1160年、参議に任官しました。武士として初の公卿の誕生です。
滋子が後白河院に嫁ぎ、皇子を出産
清盛の妻、時子の妹である滋子が後白河院に嫁いだことで、平氏一門の出世が加速します。
平治の乱以降、力を持ち始めた平氏に対して後白河院は快く思わないことも多かったようですが、賢い滋子が間に入ることで、後白河院と清盛は良好な関係を保つようになります。
この年、滋子はのちに高倉天皇となる皇子を産みました。平氏の血をひく皇子誕生は、今後の平氏の繁栄を決定づけることになりました。
後白河院の意向で蓮華王院を造営
後白河院の勅願に応え、清盛が平氏の豊かな財力を使って建てたのが蓮華王院(三十三間堂)です。当時の建物は焼けてしまい、現在の三十三間堂は鎌倉時代に再建されています。
お堂の中にはご本尊のほか、1000体の等身大の観音立像が立ち並んでいます。清盛創建当時のものは、124体が今も残っています。
三十三間堂はお堂の外見も見事ですが、横長のお堂内に観音立像が整然と並ぶ風景は圧巻です。後白河院のためにこれほどのものを建てた平氏の絶大な経済力にも驚きますし、後白河院の信任に応えようとする清盛の姿勢も感じられます。
厳島神社に装飾経33巻を奉納
清盛は平家一門の繁栄を願い、法華経などを写経し、美しく装飾を施して平氏が篤く信仰する厳島神社に奉納しました。
平氏の一族が原則として一人一巻を担当し、書写したと言われています。繊細な絵画や金銀箔、水晶に金銀透し彫りの金具を使った軸首など見事なもので、平家納経と呼ばれ、今は国宝に指定されています。
大河ドラマでは、平家納経はこれまでの戦いで命を落とした人々への供養の思いも込めているとされていました。
奉納する厳島神社は、航海の守り神を祀っており、日宋貿易に力を入れている清盛としては大切なお社です。平家納経は清盛のあらゆる思いが込められたものだと想像できます。
平氏全盛の時代
清盛は従一位太政大臣に任官します。武家として初めての就任でした。息子の重盛をはじめ、平氏一族がこぞって高位高官にのぼります。平氏の全盛であることがわかる出世です。
ただ、太政大臣の職自体は政治の実権とは直接関わりがないため、清盛は3ヶ月で辞任しています。
平氏の朝廷内での基盤を固める入内
徳子は清盛の娘であり、高倉天皇は後白河院と滋子との間に生まれた皇子です。徳子が入内し皇子を産めば、その皇子が即位することで、清盛は外戚として事実上政治の最高権力者となるわけです。そのための布石となる、平氏にとって大事な一手でした。
平氏の勢いが衰え始める
滋子は清盛が太政大臣に任官した1167年に女御となり、1168年に皇太后宣下を受けました。滋子の背後には平氏の武力と財力があったにせよ、後白河院が滋子をどれほど寵愛していたかがわかります。
滋子の死因は二禁(にきみ)と呼ばれる腫れものであったと言われています。後三条天皇の第三皇子で白河院の弟であった輔仁親王も、清盛の側近として活躍した藤原邦綱も、二禁を患って亡くなったと伝わっており、当時は死に至る人の多い病であったようです。
滋子という一人の女性のおかげでバランスを保っていた後白河院と清盛の関係は、滋子の死により徐々に険悪なものへと変化していきます。
後白河院との対立が表面化
滋子が他界したことで、朝廷内の平氏に対する反感が高まり、ついに京都郊外の鹿ヶ谷で院近臣たちが平氏打倒を計画します。しかし密告によって失敗に終わり、関係者が処罰されました。
後白河院が黒幕であることは明らかでしたが、不問にされました。しかし、この事件を通して清盛と後白河院との対立が深まっていきます。
鹿ヶ谷の陰謀に関わっていた俊寛は、薩摩鬼界ヶ島に流されます。
能で「俊寛」という演目がありますが、鬼界ヶ島で他の流人と共に過ごしていた俊寛の元に、都へ帰るための赦免船がくるものの、俊寛の名前だけは赦免状になく、都に戻れず島に残されるという悲劇が演じられます。
この能「俊寛」を元に近松門左衛門が書いた「平家女護島俊寛」は歌舞伎の演目です。この作品は俊寛が自らの意思で島に残ることを選ぶという結末になっていて、歌舞伎でも人気のある演目です。
17代目中村勘三郎が人生最後の舞台で演じたのがこの俊寛でした。
「互いに未来で(会おう)」という台詞を、共演していた息子の18代目勘三郎(当時は5代目中村勘九郎、2012年没。)に語りかけるシーンは、現実と虚構が混じり合い、観客にも歌舞伎関係者にも、強く記憶に残る舞台となりました。
長男、重盛の死と後白河院の院政停止
平重盛は、清盛の嫡男です。妻に院の近臣である藤原成親の妹を迎えていました。そのため、平氏にとっては滋子とともに武家と朝廷を結ぶパイプ役のような人です。滋子亡き後は重盛がその任を一身に背負っていたと考えられます。
重盛にとって、鹿ヶ谷事件は大きなショックでした。事件の首謀者であった藤原成親は義兄です。斬首にされて当然という状況の中、重盛の懇願により成親は流罪となりました。
清盛は後白河院を幽閉しよう考えていました。それを諌めたのは重盛だったと言われています。
重盛について、武勇に優れて温厚な人と、多くの人が好意的な印象を書き残しています。そんな人だったからこそでしょう。鹿ヶ谷の事件によって重盛は体調を崩し、他界してしまいます。
後白河院と清盛を繋いでいた人々がいなくなり、二人の関係は完全に破綻しました。後白河院を中心にした反平氏の動きが表面化したため、清盛はついに後白河院を幽閉、後白河院政は停止します。
以仁王の挙兵
後白河院を幽閉したことで、平氏は政権を完全に握ることになりました。しかし貴族、寺社、地方の武士たちが抱く平氏に対する不満は大きくなる一方でした。
1180年、高倉天皇が譲位し、安徳天皇が即位します。清盛の娘であった徳子の産んだ皇子が天皇になったのです。清盛は天皇の外戚として、政治の最高権力者となりました。
平氏にとっては喜ばしいことでしたが、この一件は同時に、このままでは平氏の専制政治が続いてしまうと、反平氏勢力が危機感を強めるきっかけにもなりました。
そしてついに、後白河院の子である以仁王が、源頼政とともに平氏打倒の兵をあげたのです。清盛は直ちに攻撃し、頼政は戦死、以仁王も討ち取られます。しかし以仁王の決起を呼びかける令旨は諸国に広がり、多くの武士が立ち上がることとなりました。
平氏に対抗心を燃やしている源氏はもちろんのこと、各地の在地領主も内乱に加わります。国司や荘園領主に対抗して自分の所領の支配権を拡大したい在地領主にとって、平氏政権は邪魔な存在だったのです。
福原への強行遷都
清盛は突如、都を福原に移します。以仁王の挙兵を収めたことをきっかけのように遷都したため、延暦寺や奈良の寺社の圧力から逃れるために行った、京都では守りを固めるのが難しいため、逃げてきた遷都という考え方が一般的でした。
しかし福原遷都は、清盛としては既定路線であったようにも考えられます。
日宋貿易を重視していた清盛にとって、大輪田泊が近い福原は、指示を下すのにとても良い場所でした。また清盛は、王朝勢力と現実的な距離を置くことで理想の政治が行えると考え、いつか福原に遷都しようと思っていた可能性があります。
大河ドラマではこの発想で福原遷都が描かれていました。どこまでも前向きな清盛の姿でしたね。
ただ、多くの人にとっては迷惑な遷都でした。福原は、まだ道路も完成していない、未完成の都市だったからです。結局6ヶ月で京都に還都することになります。
源頼朝が挙兵
以仁王の平氏追討の命に応えて、源氏も立ち上がります。その中でも義朝の嫡男、頼朝が兵を挙げた知らせは清盛にとって衝撃だったことでしょう。
頼朝は最初の石橋山の戦いでこそ敗れるものの、一旦安房に逃れ、源氏の旗のもとに平氏打倒の軍を集めて鎌倉に入ります。そして清盛の孫(重盛の息子)にあたる平維盛との一戦、富士川の戦いで勝ち、東国を手中に収めていくのです。
興福寺と東大寺の焼き討ち
武士のみならず、寺社も平氏に対して反乱を起こし始めます。清盛は、息子重衡を南都討伐に向かわせました。重衡は、東大寺、興福寺を焼き払います。僧俗1700人が焼け死んだと伝わっています。
犠牲者の人数が多いこともさることながら、鎮護国家の要であった東大寺と、藤原氏の氏寺である興福寺を焼き討ちにしたことで、貴族と寺社も平氏を見限ることになりました。
清盛の最期
年が明けて間もなく、長く病を患っていた高倉上皇が崩御しました。生母が建春門院滋子で、建礼門院徳子との間に安徳天皇をもうけた高倉天皇は、朝廷内でも平氏寄りの皇族として貴重な存在でした。高倉天皇の崩御は平氏にとって大きな痛手であったはずです。
そして清盛が病に倒れます。高熱に悩まされたとか、頭風(頭痛のこと)に苦しんだなどいろいろな説がありますが、病は悪化の一途をたどり、回復することはなく亡くなりました。