「南朝と北朝それぞれの天皇、武将は?」
「南北朝時代に起こった出来事は?」
「南北朝時代と室町時代の違いは?」
南北朝時代に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?南北朝時代は朝廷が南朝と北朝の二派に分裂していた、日本の歴史の中でも特異な時代として知られています。また、元号も2つが並立していたうえ、当時の有力な武将たちも南朝と北朝それぞれに別れて争った時代で、その中身が非常にややこしくなっています。
そんな南北朝時代とは、一体どんな次代だったのか?南朝と北朝にはそれぞれどんな天皇や武将が属していたのか?南北朝時代にはどんな出来事が起こったのか?など、南北朝時代に関してわかりやすくお伝えしていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
南北朝時代とは
南北朝時代はいつからいつまで?
南北朝時代は、南朝:建武3年/北朝:延元元年(1336年)から、南朝 : 元中9年/ 北朝 : 明徳3年(1392)年までの、約57年間を指しています。時代区分としては、鎌倉時代が終焉し、後醍醐天皇による建武の新政がたった3年で終わりを迎えた後の時代。つまり、南北朝時代の始まりは室町時代の始まりと同時期であり、室町時代の初頭に該当します。
時代区分上の室町時代は約二百数十年続きますが、始めの頃が南北朝時代、後半期は戦国時代に該当しています。よって、純粋な室町時代は約75~100年間程度しかありません。そんな室町時代の初頭に該当する南北朝時代は、まさしく混乱の時代だったのです。
南北朝時代の流れを簡単に説明すると?
後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を目指し、それに呼応した足利尊氏や新田義貞といった武将たちの活躍で、鎌倉幕府は滅亡しました。その後、後醍醐天皇が親政(天皇が自ら行う政治)を始めたのですが、鎌倉幕府打倒に功績のあった武士たちを蔑ろにしたため、反発を買ってしまいます。そして後醍醐政権打倒を掲げた武士団が足利尊氏を中心として決起しました。そして、足利尊氏が新たに光明天皇を践祚させたことで北朝が成立。後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ南朝を樹立したことで、朝廷が二派に別れました。
それから約57年間に渡り、南朝と北朝による争いが続きます。しかし、室町幕府三代将軍 足利義満の時代に、南朝の主だった人物が相次いで死去。南朝は抵抗する力を失っていきました。このような中、権力の絶頂にあった足利義満の斡旋によって南朝と北朝が合流し、朝廷はひとつに戻ったのです。
南朝と北朝に別れた背景
前述の通り、南北朝時代は朝廷が二派に割れていた時代であり、それがこの時代を象徴する大きな特徴となっています。ではなぜ朝廷は二派に別れてしまったのでしょうか?その予兆は南北朝時代以前から存在しており、その中心にいた人物が後醍醐天皇でした。以下より、南北朝に別れた経緯を、前時代まで遡って解説していきます。
両統迭立
鎌倉時代の真っただ中の文永9年(1272年)2月、第88代 後嵯峨天皇が崩御。御嵯峨天皇には第89代 後深草天皇と第90代 亀山天皇の2人の後継者候補がいました。しかし、後嵯峨天皇が後継者を明確にしないまま崩御したため、御深草天皇(上皇)と亀山天皇との間に亀裂が生じ、朝廷が分裂しました。そこで鎌倉幕府は、両派閥から交互に天皇を立てることを取り決めました。これを「両統迭立(りょうとうてつりつ)」と言います。
後深草天皇の派閥は「持明院統(じみょういんとう)」と呼ばれ、後の北朝となります。一方、亀山天皇の派閥を「大覚寺統(だいかくじとう)」と言い、こちらが後の南朝となります。
鎌倉幕府の滅亡
両統迭立が定められて以降、表面上は大きな問題も無く天皇の継承が行われてきました。ところが大覚寺統である第96代 後醍醐天皇の御代において状況が一変します。武家である北条氏が政務を取り仕切っていた鎌倉幕府から、天皇の政治権力を取り戻さんとして、後醍醐天皇は討幕を計画。2度に渡り倒幕計画を立てるも共に失敗し、後醍醐天皇は捕縛され隠岐に流されました。
しかし、後醍醐天皇は不屈の執念で隠岐から脱出。釣り船に乗って出雲国(現在の島根県東部)に流れ着き、再び討幕の檄を諸国へ飛ばしました。そして、足利尊氏や新田義貞といった武将がこれに呼応。足利尊氏が鎌倉幕府の京都の出先機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼし、関東では新田義貞が鎌倉幕府を陥落させ倒幕は成功しました(元弘の乱)。
建武の新政
武士たちの協力を得て倒幕を成し遂げた後醍醐天皇は、親政(天皇が自ら行う政治)を開始します。これが「建武の新政(建武の中興)」です。しかし、建武の新政は倒幕に功績のあった武士たちの要求を蔑ろにしたため、武士たちの不満は増大していきます。こうして倒幕の功労者の一人であった足利尊氏が、武家政権の復活を目指し離反。建武政権打倒を掲げ反旗を翻しました。
後醍醐天皇に味方した武士らの活躍により、一時は劣勢となり九州に退いていた足利尊氏でしたが、持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)の後ろ盾を得て、大軍を組織し京都へ進軍。湊川の戦いで新田義貞や楠木正成を撃破し京都を制圧しました。
南朝と北朝の成立
京都を制圧した足利尊氏は光厳上皇の皇子である光明天皇(持明院統)を践祚(せんそ、天皇の地位を受け継ぐこと)させ「北朝」を樹立します。一方、京都を追われた後醍醐天皇(大覚寺統)は、比叡山に逃れ抵抗したものの、足利尊氏の和睦要請に応じ、天皇に代々受け継がれている3つの宝物「三種の神器」を北朝に譲り渡しました。
ところが後醍醐天皇は「北朝に譲り渡した三種の神器は偽物である」として自らの正当性を主張。京都から脱出し、現在の奈良県吉野で南朝を開きました。こうして持明院統が北朝、大覚寺統が南朝となり、南北朝時代へと突入していくのです。
南北朝時代の文化
南北朝時代は大きな動乱期であり、その緊張感を描いた文学作品が多く作らた時代でもありました。その代表作が、南北朝時代を描いた「太平記」です。諸説あるものの、南北朝時代後期の1370年ころまでには成立したと考えられています。
また、この時代を代表する文化として「ばさら大名」の存在があります。ばさら大名とは、身分や権威に流されず、派手な振る舞いや粋な服装を好む風雅な大名たちの総称です。代表的な人物としては「佐々木誉導」「高師直」「土岐頼遠」などが挙げられます。
大塔宮について触れて欲しかったです。