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【年表付】南北朝時代とは?歴代天皇や武将、文化も分かりやすく解説

「南朝と北朝それぞれの天皇、武将は?」
「南北朝時代に起こった出来事は?」
「南北朝時代と室町時代の違いは?」

南北朝時代に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?南北朝時代は朝廷が南朝と北朝の二派に分裂していた、日本の歴史の中でも特異な時代として知られています。また、元号も2つが並立していたうえ、当時の有力な武将たちも南朝と北朝それぞれに別れて争った時代で、その中身が非常にややこしくなっています。

そんな南北朝時代とは、一体どんな次代だったのか?南朝と北朝にはそれぞれどんな天皇や武将が属していたのか?南北朝時代にはどんな出来事が起こったのか?など、南北朝時代に関してわかりやすくお伝えしていきます。

南北朝時代とは

南北朝時代はいつからいつまで?

太平記絵巻

南北朝時代は、南朝:建武3年/北朝:延元元年(1336年)から、南朝 : 元中9年/ 北朝 : 明徳3年(1392)年までの、約57年間を指しています。時代区分としては、鎌倉時代が終焉し、後醍醐天皇による建武の新政がたった3年で終わりを迎えた後の時代。つまり、南北朝時代の始まりは室町時代の始まりと同時期であり、室町時代の初頭に該当します。

時代区分上の室町時代は約二百数十年続きますが、始めの頃が南北朝時代、後半期は戦国時代に該当しています。よって、純粋な室町時代は約75~100年間程度しかありません。そんな室町時代の初頭に該当する南北朝時代は、まさしく混乱の時代だったのです。

南北朝時代の流れを簡単に説明すると?

足利尊氏の墓所

後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を目指し、それに呼応した足利尊氏や新田義貞といった武将たちの活躍で、鎌倉幕府は滅亡しました。その後、後醍醐天皇が親政(天皇が自ら行う政治)を始めたのですが、鎌倉幕府打倒に功績のあった武士たちを蔑ろにしたため、反発を買ってしまいます。そして後醍醐政権打倒を掲げた武士団が足利尊氏を中心として決起しました。そして、足利尊氏が新たに光明天皇を践祚させたことで北朝が成立。後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ南朝を樹立したことで、朝廷が二派に別れました。

それから約57年間に渡り、南朝と北朝による争いが続きます。しかし、室町幕府三代将軍 足利義満の時代に、南朝の主だった人物が相次いで死去。南朝は抵抗する力を失っていきました。このような中、権力の絶頂にあった足利義満の斡旋によって南朝と北朝が合流し、朝廷はひとつに戻ったのです。

南朝と北朝に別れた背景

前述の通り、南北朝時代は朝廷が二派に割れていた時代であり、それがこの時代を象徴する大きな特徴となっています。ではなぜ朝廷は二派に別れてしまったのでしょうか?その予兆は南北朝時代以前から存在しており、その中心にいた人物が後醍醐天皇でした。以下より、南北朝に別れた経緯を、前時代まで遡って解説していきます。

両統迭立

第88代 後嵯峨天皇

鎌倉時代の真っただ中の文永9年(1272年)2月、第88代 後嵯峨天皇が崩御。御嵯峨天皇には第89代 後深草天皇と第90代 亀山天皇の2人の後継者候補がいました。しかし、後嵯峨天皇が後継者を明確にしないまま崩御したため、御深草天皇(上皇)と亀山天皇との間に亀裂が生じ、朝廷が分裂しました。そこで鎌倉幕府は、両派閥から交互に天皇を立てることを取り決めました。これを「両統迭立(りょうとうてつりつ)」と言います。

後深草天皇の派閥は「持明院統(じみょういんとう)」と呼ばれ、後の北朝となります。一方、亀山天皇の派閥を「大覚寺統(だいかくじとう)」と言い、こちらが後の南朝となります。

鎌倉幕府の滅亡

鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の銅像

両統迭立が定められて以降、表面上は大きな問題も無く天皇の継承が行われてきました。ところが大覚寺統である第96代 後醍醐天皇の御代において状況が一変します。武家である北条氏が政務を取り仕切っていた鎌倉幕府から、天皇の政治権力を取り戻さんとして、後醍醐天皇は討幕を計画。2度に渡り倒幕計画を立てるも共に失敗し、後醍醐天皇は捕縛され隠岐に流されました。

しかし、後醍醐天皇は不屈の執念で隠岐から脱出。釣り船に乗って出雲国(現在の島根県東部)に流れ着き、再び討幕の檄を諸国へ飛ばしました。そして、足利尊氏や新田義貞といった武将がこれに呼応。足利尊氏が鎌倉幕府の京都の出先機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼし、関東では新田義貞が鎌倉幕府を陥落させ倒幕は成功しました(元弘の乱)。

建武の新政

後醍醐天皇を描いたもの

武士たちの協力を得て倒幕を成し遂げた後醍醐天皇は、親政(天皇が自ら行う政治)を開始します。これが「建武の新政(建武の中興)」です。しかし、建武の新政は倒幕に功績のあった武士たちの要求を蔑ろにしたため、武士たちの不満は増大していきます。こうして倒幕の功労者の一人であった足利尊氏が、武家政権の復活を目指し離反。建武政権打倒を掲げ反旗を翻しました。

後醍醐天皇に味方した武士らの活躍により、一時は劣勢となり九州に退いていた足利尊氏でしたが、持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)の後ろ盾を得て、大軍を組織し京都へ進軍。湊川の戦いで新田義貞や楠木正成を撃破し京都を制圧しました。

南朝と北朝の成立

三種の神器の想像図

京都を制圧した足利尊氏は光厳上皇の皇子である光明天皇(持明院統)を践祚(せんそ、天皇の地位を受け継ぐこと)させ「北朝」を樹立します。一方、京都を追われた後醍醐天皇(大覚寺統)は、比叡山に逃れ抵抗したものの、足利尊氏の和睦要請に応じ、天皇に代々受け継がれている3つの宝物「三種の神器」を北朝に譲り渡しました。

ところが後醍醐天皇は「北朝に譲り渡した三種の神器は偽物である」として自らの正当性を主張。京都から脱出し、現在の奈良県吉野で南朝を開きました。こうして持明院統が北朝、大覚寺統が南朝となり、南北朝時代へと突入していくのです。

南北朝時代の文化

女性を覗き見する ばさら大名「高師直」を描いたもの

南北朝時代は大きな動乱期であり、その緊張感を描いた文学作品が多く作らた時代でもありました。その代表作が、南北朝時代を描いた「太平記」です。諸説あるものの、南北朝時代後期の1370年ころまでには成立したと考えられています。

また、この時代を代表する文化として「ばさら大名」の存在があります。ばさら大名とは、身分や権威に流されず、派手な振る舞いや粋な服装を好む風雅な大名たちの総称です。代表的な人物としては「佐々木誉導」「高師直」「土岐頼遠」などが挙げられます。

南北朝時代の主要人物

南朝の天皇

後醍醐天皇

後醍醐天皇の肖像

第96代天皇であり南朝の初代天皇。鎌倉幕府を倒し建武の新政を行ったことで非常に有名な天皇です。足利尊氏によって建武政権が瓦解した後に南朝を樹立し、北朝との争いに突入。南北朝時代を招いた中心人物の一人です。通常の天皇陵(天皇の墓所)は南側を向いているのですが、後醍醐天皇の陵は北側を向いている事でも知られ、これは北朝を打倒し必ず京都へ復帰するという、後醍醐天皇の強い意志が込められていると言われています。

足利尊氏らの離反によって、建武の新政が約3年で終わってしまったことや、太平記に描かれる執念深い性格などからあまり良いイメージを持たれないのですが、一方で建武の新政の先進性や、学問・芸術などの文化面で素晴らしい業績を残していることなどから、その実像は非常に優れた統治者であったとも言われています。

後村上天皇

後村上天皇の肖像

第97代天皇であり南朝の2代天皇。父は後醍醐天皇。後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都復帰を目指し活躍しました。南朝:暦応2年/北朝:延元4年(1339年)8月に後醍醐天皇から譲位され天皇となり、その後継者として北朝と戦い続けた生涯でした。和歌や音楽、書などにも精通した文化人としても知られています。

長慶天皇

長慶天皇にゆかりのある金剛寺摩尼院

第98代天皇であり南朝の3代天皇。父は後村上天皇。史料が少なく謎の多い天皇です。先代の後村上天皇の代までは、南北両朝で和睦交渉の話が持ち上がっていたこともありましたが、長慶天皇の御代になりそういった話が一切見られなくなっていることから、北朝に対して相当な強硬派だったと見られています。紫式部の源氏物語の注釈書『仙源抄』を著した文化人でもありました。

後亀山天皇

後亀山天皇の肖像

第99代天皇であり南朝の4代天皇。父は後村上天皇で長慶天皇の弟。北朝:明徳3年/南朝:元中9年(1392年)に、室町幕府3代将軍 足利義満の斡旋によって南北朝合一(明徳の和約)が成された際の、南朝最後の天皇です。南北朝合一後の応永4年(1397年)には出家したものの、最期まで南朝の皇位復帰を目指していたと言われています。

南朝の主な武将

楠木正成

楠木正成の肖像

後醍醐天皇に味方して戦った有名な人物。最期まで後醍醐天皇に従った忠臣とされる場合もありますが、その評価は様々です。中でも1333年、楠木正成率いる倒幕軍と鎌倉幕府軍の間で起こった「千早城の戦い」は有名です。兵数には諸説ありますが、千早城に籠城する楠木軍1,000人に対し、城を包囲する幕府軍は25,000(太平記では100万とも)。圧倒的に数的有利な幕府軍は、その兵数の多さに任せ力攻めを行いました。しかし、楠木正成は巧みな戦略や戦術で応戦し幕府軍を翻弄。わずか1000人の楠木軍は見事勝利を手にしました。

その後も最期まで後醍醐天皇に従い続け、足利尊氏と湊川の戦いで激突しましたが敗北。弟たちと共に自害して果てました。

楠木正行

楠木正行の肖像

楠木正成の嫡男。名前は「まさつら」と読みます。父と並び南北朝時代を代表する武将の一人です。楠木正成が「大楠公」と呼ばれたのに対し、正行は「小楠公」と呼ばれています。父の正成を始め、新田義貞や北畠顕家といった南朝を代表する人物たちが相次いで亡くなり、さらには後醍醐天皇が崩御した後も、次代の後村上天皇を補佐しました。

南朝:正平2年/北朝:貞和3年(1347年)に行われた藤井寺合戦では、北朝の大軍を立て続けに撃破。北朝から「不可思議の事なり」(人智を超越した事象である)と恐れられたと言われています。最期は四条畷の戦いで高師直や佐々木導誉と戦うも、奮戦むなしく討死しました。

新田義貞

新田義貞の肖像

後醍醐天皇に呼応し、鎌倉幕府を倒した人物。鎌倉に進軍する最中、稲村ヶ崎の海が満潮で先に進めなくなった際に、義貞が刀を海に投げ入れて龍神に祈願すると、たちまち潮が引き稲村ヶ崎を突破できた、という伝説が語り継がれています。

建武の新政後も後醍醐天皇に味方し、離反した足利尊氏らと戦いました。しかし、楠木正成、北畠顕家といった南朝の主力が相次いで戦死。そして、南朝:建武5年/北朝:暦応元年(1338年)の藤島の戦いにて義貞も討死しました。一説によると勾当内侍(こうとうのないし)という女性との恋に溺れたために出兵が遅れ、勝機を逃したとも言われています。

北畠顕家

北畠顕家の肖像

南朝に属して戦った公卿であり武将。父は「神皇正統記」を著した北畠親房。足利尊氏が反旗を翻した際は、楠木正成、新田義貞らとともに戦い、尊氏を九州まで敗走させました。その後、任地の東北地方に戻っていましたが、尊氏再挙兵の報に接し大軍を率いて進撃を開始。道中で鎌倉を攻めこれに勝利、その後もすさまじい勢いで進撃しましたが、石津の戦いで北朝の高師直と激突し戦死しました。21歳の若さでした。なお、顕家の強行軍は、後年羽柴秀吉が行った中国大返しを凌ぐ距離と進軍速度だったと言われています。

戦死する一週間前、後醍醐天皇を諫めるために書いた「北畠顕家上奏文」を残したことでも知られています。

北畠親房

北畠親房の墓所

後醍醐天皇を支えた公卿で北畠顕家の父親。一度は出家し引退していたものの、後醍醐天皇の建武の新政に合わせ政界に復帰しました。息子の顕家が石津の戦いで戦死し、さらに後醍醐天皇が崩御した後も、次代の後村上天皇を補佐し北朝に対抗しました。

また、「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」の著者としても有名。鎌倉時代の僧侶 慈円の「愚管抄(ぐかんしょう)」と並び、日本中世史の貴重な史料として位置づけられています。神皇正統記は、徳川光圀(いわゆる水戸黄門)や新井白石、頼山陽といった後世の歴史家に多大なる影響を与えたと言われています。

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