【年表付】南北朝時代とは?歴代天皇や武将、文化も分かりやすく解説

北朝の天皇

光厳天皇

光厳天皇の肖像

北朝の初代天皇。倒幕に失敗した後醍醐天皇が一時失脚していた時に皇位につきました。しかし、後醍醐天皇が復権し、鎌倉幕府を倒した後に皇位を否定され、全て無かったことにされてしまいました。なので、歴代天皇126代に含まれていません。

また、南朝に拉致された際に流れ矢に当たって負傷したり、道端でばさら大名の土岐頼遠(ときよりとお)と擦れ違った時に、乗っていた牛車に矢を射かけられたりと、南北朝の動乱に翻弄され続けた天皇でした。

光明天皇

光明天皇の肖像

北朝の2代天皇で光厳天皇の弟。後醍醐天皇から離反した足利尊氏が、北朝を樹立した際に天皇として践祚したのですが、先代の光厳天皇が歴代天皇126代に含まれておらず、あくまで北朝の初代天皇とされているため、光明天皇は北朝の2代目ということになっています。自筆の日記「光明天皇宸記(こうみょうてんのうしんき)」の著者としても知られています。

崇光天皇

崇光天皇の御陵

北朝の3代天皇。現在の皇室と旧皇族11宮家の共通の先祖に当たる天皇です。詳しくは後述しますが、崇光上皇(と先々代の光厳、先代の光明、皇太子の直仁親王)が南朝に拉致されるという事件が起こり、これが次代の後光厳天皇が践祚する際に大きな問題となります。

後光厳天皇

後光厳天皇の肖像

北朝の4代天皇。上記の通り、光厳、光明、崇光の三上皇と、皇位継承者の直仁親王が南朝に拉致されたため、北朝には天皇と皇太子がいなくなってしまいました。かろうじて、光厳上皇の子で仏門に入っていた弥仁王(いやひとおう)を天皇候補とすることはできましたが、皇位継承に必要な三種の神器が南朝の手に渡っています。しかも三上皇が拉致されたため、天皇を任命する「治天の君(ちてんのきみ)」も不在。

そこで北朝は広義門院(西園寺寧子)という女性を強引に治天の君の座に就けました。広義門院は光厳、光明両上皇の母親ではありましたが、皇室出身ではなく元は民間の女性です。民間出身者で治天の君になったのも、女性で治天の君になったのも日本の歴史上、広義門院が唯一です。こうして弥仁王は践祚し、北朝第4代 後光厳天皇となりました。

後円融天皇

後円融天皇の肖像

北朝の5代天皇で後光厳天皇の子。そもそもではあるのですが、御円融天皇の父 後光厳は、北朝の三上皇と皇太子が拉致されたことで、急遽仏門から呼び戻されて皇位につきました。本来であれば崇光天皇の血筋が皇位を継承していくはずでしたが、拉致事件の結果、北朝が広義門院を治天の君とし、後光厳(光厳の子)を強引に皇位につけたため、崇光天皇の血筋は皇位から外れ、後光厳の血筋である御円融が即位する結果となったのです。

なお、この頃より力を持ち始めた室町幕府3代将軍 足利義満が、天皇の政治権限に介入してきます。ゆえに後円融天皇と足利義満はたいへん不仲だったと言われ、自殺未遂まで起こしています。

後小松天皇

後小松天皇の肖像

北朝の6代天皇であると同時に、日本の第100代天皇。先代の後円融天皇の譲位によって北朝の天皇として即位しましたがまだ6歳と幼かったため、将軍の足利義満が補佐するという名目で徐々に朝廷の実権を握られてしまいました。いわゆる南北朝合一(明徳の和約)の時の天皇であり、南朝から三種の神器を継承し、再び両統迭立を行うことを条件に、日本の100代目の天皇として即位しました。

北朝の主な武将

足利尊氏

足利尊氏の肖像

室町幕府初代将軍。後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を目指すとこれに呼応。幕府の京都における出先機関であった六波羅探題を滅ぼし、倒幕に大きく貢献しました。しかし、後醍醐天皇による建武の新政に不満を抱き反旗を翻すと、光明天皇を践祚させ北朝を樹立し、征夷大将軍に任命され室町幕府を開きました。

評価が大きく分かれる人物でもあり、戦場での勇猛さや慈悲深さ、気前の良さなどが評価される一方、乱の最中で寺に引きこもって政務への意欲を無くしてしまったりなど、両極端な面を持っていました。一説には双極性障害(躁鬱病)を患っていたのではないかとも言われています。

足利直義

足利直義を描いたとされる肖像(かつては源頼朝像とされていたもの)

足利尊氏の弟。名前は「ただよし」と読みます。兄の尊氏が軍事面で活躍したのに対し、直義は幕政全般を担っており、実質的には幕府における政治の最高指導者として活躍しました。このように、草創期の室町幕府は尊氏と直義の二頭政治を行っていたので、二人を合わせて「両将軍」と称すこともあります。

ところが、南朝:正平3年/北朝:貞和4年(1348年)頃から、足利家の執事を務める高師直との対立が顕著となり、これが「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼ばれる大乱へと発展していきます。やがて尊氏との対立にも繋がり、最期は乱に敗れて幽閉されそのまま亡くなりました。尊氏による毒殺とも言われています。

佐々木導誉

佐々木導誉の肖像

南北朝時代を代表する「ばさら大名」の一人。鎌倉幕府の打倒、建武政権の打倒と足利尊氏と行動を共にした盟友としても知られています。北朝の三上皇と皇太子が拉致された際に、広義門院を治天の君とするべく説き伏せたのも導誉でした。初期の室町幕府を支えた立役者である一方、その「ばさら」っぷりを示すエピソードにも事欠かない豪快な人物でした。一方で、連歌や茶道、香道にも精通した文化人でもありました。

高師直

高師直を描いたとされる肖像(かつては足利尊氏像とされていもの)

南北朝時代を代表する「ばさら大名」の一人。足利尊氏が後醍醐天皇から離反した際に尊氏と行動を共にし、以降初期の室町幕府の中枢を担う人物として活躍します。楠木正成を破った湊川の戦い、北畠顕家を撃破した石津の戦い、楠木正行を討ち取った四条畷の戦い、吉野の焼き討ちなど、数々の合戦でも功を立てました。

後に足利直義と不和になり観応の擾乱へと発展。打出浜の戦いで敗北し、護送中に暗殺されました。荒くれ者としての面が強調されがちな人物ですが、和歌や書などにも精通した文化人としての側面も持っていました。

足利義満

足利義満の肖像

室町幕府3代将軍で南北朝時代を終わらせた人物。室町幕府の最盛期を築き、その権力は留まることろを知らず、皇室の乗っ取りを目論んでいたとも言われています。義満の皇室の簒奪計画は順調に進んていましたが、あと一歩のところで急死。ギリギリのところで未遂に終わりました。自身の隠居所として建立した金閣寺(鹿苑寺金閣)は、その名が示す通りの豪奢な建築物で、義満の権力がいかに凄まじいものであったかを象徴しています。

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