南北朝時代の主要人物
南朝の天皇
後醍醐天皇
第96代天皇であり南朝の初代天皇。鎌倉幕府を倒し建武の新政を行ったことで非常に有名な天皇です。足利尊氏によって建武政権が瓦解した後に南朝を樹立し、北朝との争いに突入。南北朝時代を招いた中心人物の一人です。通常の天皇陵(天皇の墓所)は南側を向いているのですが、後醍醐天皇の陵は北側を向いている事でも知られ、これは北朝を打倒し必ず京都へ復帰するという、後醍醐天皇の強い意志が込められていると言われています。
足利尊氏らの離反によって、建武の新政が約3年で終わってしまったことや、太平記に描かれる執念深い性格などからあまり良いイメージを持たれないのですが、一方で建武の新政の先進性や、学問・芸術などの文化面で素晴らしい業績を残していることなどから、その実像は非常に優れた統治者であったとも言われています。
後村上天皇
第97代天皇であり南朝の2代天皇。父は後醍醐天皇。後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都復帰を目指し活躍しました。南朝:暦応2年/北朝:延元4年(1339年)8月に後醍醐天皇から譲位され天皇となり、その後継者として北朝と戦い続けた生涯でした。和歌や音楽、書などにも精通した文化人としても知られています。
長慶天皇
第98代天皇であり南朝の3代天皇。父は後村上天皇。史料が少なく謎の多い天皇です。先代の後村上天皇の代までは、南北両朝で和睦交渉の話が持ち上がっていたこともありましたが、長慶天皇の御代になりそういった話が一切見られなくなっていることから、北朝に対して相当な強硬派だったと見られています。紫式部の源氏物語の注釈書『仙源抄』を著した文化人でもありました。
後亀山天皇
第99代天皇であり南朝の4代天皇。父は後村上天皇で長慶天皇の弟。北朝:明徳3年/南朝:元中9年(1392年)に、室町幕府3代将軍 足利義満の斡旋によって南北朝合一(明徳の和約)が成された際の、南朝最後の天皇です。南北朝合一後の応永4年(1397年)には出家したものの、最期まで南朝の皇位復帰を目指していたと言われています。
南朝の主な武将
楠木正成
後醍醐天皇に味方して戦った有名な人物。最期まで後醍醐天皇に従った忠臣とされる場合もありますが、その評価は様々です。中でも1333年、楠木正成率いる倒幕軍と鎌倉幕府軍の間で起こった「千早城の戦い」は有名です。兵数には諸説ありますが、千早城に籠城する楠木軍1,000人に対し、城を包囲する幕府軍は25,000(太平記では100万とも)。圧倒的に数的有利な幕府軍は、その兵数の多さに任せ力攻めを行いました。しかし、楠木正成は巧みな戦略や戦術で応戦し幕府軍を翻弄。わずか1000人の楠木軍は見事勝利を手にしました。
その後も最期まで後醍醐天皇に従い続け、足利尊氏と湊川の戦いで激突しましたが敗北。弟たちと共に自害して果てました。
楠木正行
楠木正成の嫡男。名前は「まさつら」と読みます。父と並び南北朝時代を代表する武将の一人です。楠木正成が「大楠公」と呼ばれたのに対し、正行は「小楠公」と呼ばれています。父の正成を始め、新田義貞や北畠顕家といった南朝を代表する人物たちが相次いで亡くなり、さらには後醍醐天皇が崩御した後も、次代の後村上天皇を補佐しました。
南朝:正平2年/北朝:貞和3年(1347年)に行われた藤井寺合戦では、北朝の大軍を立て続けに撃破。北朝から「不可思議の事なり」(人智を超越した事象である)と恐れられたと言われています。最期は四条畷の戦いで高師直や佐々木導誉と戦うも、奮戦むなしく討死しました。
新田義貞
後醍醐天皇に呼応し、鎌倉幕府を倒した人物。鎌倉に進軍する最中、稲村ヶ崎の海が満潮で先に進めなくなった際に、義貞が刀を海に投げ入れて龍神に祈願すると、たちまち潮が引き稲村ヶ崎を突破できた、という伝説が語り継がれています。
建武の新政後も後醍醐天皇に味方し、離反した足利尊氏らと戦いました。しかし、楠木正成、北畠顕家といった南朝の主力が相次いで戦死。そして、南朝:建武5年/北朝:暦応元年(1338年)の藤島の戦いにて義貞も討死しました。一説によると勾当内侍(こうとうのないし)という女性との恋に溺れたために出兵が遅れ、勝機を逃したとも言われています。
北畠顕家
南朝に属して戦った公卿であり武将。父は「神皇正統記」を著した北畠親房。足利尊氏が反旗を翻した際は、楠木正成、新田義貞らとともに戦い、尊氏を九州まで敗走させました。その後、任地の東北地方に戻っていましたが、尊氏再挙兵の報に接し大軍を率いて進撃を開始。道中で鎌倉を攻めこれに勝利、その後もすさまじい勢いで進撃しましたが、石津の戦いで北朝の高師直と激突し戦死しました。21歳の若さでした。なお、顕家の強行軍は、後年羽柴秀吉が行った中国大返しを凌ぐ距離と進軍速度だったと言われています。
戦死する一週間前、後醍醐天皇を諫めるために書いた「北畠顕家上奏文」を残したことでも知られています。
北畠親房
後醍醐天皇を支えた公卿で北畠顕家の父親。一度は出家し引退していたものの、後醍醐天皇の建武の新政に合わせ政界に復帰しました。息子の顕家が石津の戦いで戦死し、さらに後醍醐天皇が崩御した後も、次代の後村上天皇を補佐し北朝に対抗しました。
また、「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」の著者としても有名。鎌倉時代の僧侶 慈円の「愚管抄(ぐかんしょう)」と並び、日本中世史の貴重な史料として位置づけられています。神皇正統記は、徳川光圀(いわゆる水戸黄門)や新井白石、頼山陽といった後世の歴史家に多大なる影響を与えたと言われています。
大塔宮について触れて欲しかったです。