【年表付】南北朝時代とは?歴代天皇や武将、文化も分かりやすく解説

南北朝時代の主な出来事の年表まとめ

1336年:湊川の戦い

楠木正成を主祭神とする湊川神社

後醍醐天皇に反旗を翻したものの、一度は劣勢となり九州に逃亡していた足利尊氏が体制を立て直し軍を率いて東上、これを楠木正成や新田義貞が迎え撃ちました。尊氏軍は50万人にも膨れ上がっていたとされ、約5万人の楠木・新田軍はあえなく敗北。楠木正成はわずか700の兵で足利直義の軍勢に突撃を敢行。大奮戦ののちに自害して果てました。

1336年:北朝と南朝の樹立

後醍醐天皇が逃れた吉野山

湊川の戦いで勝利した足利尊氏は京都を制圧。後醍醐天皇に対抗するため、光明天皇を擁立し北朝を樹立しました。一方、京都を追われた後醍醐天皇は、現在の奈良県吉野に逃れ、この地で南朝を樹立します。こうして約57年にも及ぶ南北朝の動乱が幕を開けたのです。

1338年:石津の戦いと藤島の戦い

石津の戦いを再現したCG画像

足利尊氏の動きに対し、東北の任地で領国経営に当たっていた北畠顕家は軍勢を率いて進軍を開始。破竹の勢いで進撃を続けましたが、北朝方の高師直と激突した石津の戦いにおいて戦死を遂げました。それから約2ヶ月後、越前(現在の福井県)にて南朝方の新田義貞と北朝方の足利高経が激突(藤島の戦い)。この戦いで新田義貞が討死し、南朝は楠木正成、北畠顕家、新田義貞といった主力を相次いで失ったのです。

1339年:後醍醐天皇の崩御

後醍醐天皇像

主力を次々と失った南朝をさらなる悲劇が襲います。石津の戦い、藤島の戦いの翌年にあたる南朝:延元4年/北朝:暦応2年(1339年)9月に後醍醐天皇が崩御したのです。同じころ、北畠親房が関東で南朝勢力を結集させるとともに、南朝の正当性を示すため「神皇正統記」の執筆を開始しました。

1348年:四条畷の戦い

戦死した楠木正行を主祭神とする四条畷神社

後醍醐天皇が崩御した後も、その意思を継いだ後村上天皇が抵抗を続けていました。その最中の南朝:正平3年/北朝:貞和4年(1348年)、楠木正成の子である楠木正行&弟の正時と、北朝の重鎮 高師直&佐々木導誉が激突します。これが四条畷の戦いです。兵力では北朝方が上回っていたとされていますが、楠木正行は父譲りの巧みな軍略で敵を翻弄。しかし、多勢に無勢で楠木兄弟は討ち取られ南朝方が敗北しました。

1350年:観応の擾乱

高師直が殺害された武庫川

四条畷の戦いで活躍した高師直の名声が一気に高まったことで、室町幕府における政治の最高責任者であった足利直義との均衡が崩れ始めます。やがて尊氏&師直派と直義派に別れて幕府内での派閥争いが勃発。これが「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」へと発展していきます。

この争いの最中、打出浜の戦いで直義軍に敗北した高師直は捕縛され、京都への護送中に一族もろとも暗殺されました。ところがその後、直義方の武将が襲撃されたり暗殺されたりという事態が発生、尊氏の策謀を察知した直義は京都を脱出し鎌倉へ逃亡しました。

その後、尊氏は南朝と和睦し北朝が折れる形で朝廷が統一されました。これを「正平一統」と言います。その後、直義は薩埵峠の戦いで尊氏に敗北し、幽閉先で急死しました。太平記では尊氏による毒殺としています。その後、正平一統はわずか4カ月で破談となり、再び南北朝に分裂しました。

1352年:広義門院が治天の君に

広義門院を説得した佐々木導誉の墓所

観応の擾乱の後も争い続ける南朝と北朝。その最中、北朝の三上皇(光厳、光明、崇光)と皇太子(直仁)が拉致され、民間出身の広義門院(西園寺寧子)が治天の君となったことはすでに述べた通りです。

この強引な手法により後光厳天皇が即位したのですが、当初、広義門院は治天の君となることを拒絶していました。広義門院は、拉致された三上皇の母であり祖母にあたります。我が子や孫を拉致されるという不手際をやらかした北朝に対し、相当な嫌悪感を示していたようです。しかし、佐々木導誉の度重なる説得の結果、ついに広義門院が折れる形で治天の君になったのでした。

1392年:南北朝合一

足利義満を象徴する建造物「金閣寺」

その後も争いを続けていた南朝と北朝。北朝の第6第 後小松天皇が6歳と幼かったため、3代将軍 足利義満が補佐する形で、天皇権限を侵食し始めます。絶大な権力を手にした義満は、南北朝の斡旋に乗り出し、南朝が北朝に吸収される形で南北朝がひとつにまとまりました。これを「明徳の和約」と言います。こうして約57年間続いた南北朝時代が終焉したのです。

南北朝時代に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?南北朝時代とは、朝廷が2つに別れて争った日本の歴史上でも極めて特異な時代でした。また、南朝と北朝で別々の元号を使用するなど、日本が混迷を極めた時代でもありました。

室町時代の開始とほぼ同時期に勃発した南北朝の動乱。乱の後は、足利義満が絶大な権力を握り一時の安定を見せましたが、後に起こる嘉吉の変や応仁の乱を経て、戦国時代へと突入していきます。つまり、室町時代はまさに激動の時代であり、その開幕を告げたのが南北朝の動乱でした。そういった意味でも、室町時代全体を理解する上で非常に重要な時代が、南北朝時代と言えるのではないでしょうか?最後まで読んでいただきありがとうございました。

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