マルタ会談とは?内容や参加者、ヤルタ会談との違いを分かりやすく解説

会談の参加者は?

アメリカ側

ブッシュ大統領

アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュ

マルタ会談のときのアメリカ大統領はジョージ・H・Wブッシュです。ブッシュは強気の政治姿勢で知られたレーガン政権の副大統領をつとめました。1988年、ブッシュは民主党のデュカキス候補に圧勝し第41代アメリカ大統領に当選しました。

1989年11月のベルリンの壁崩壊のときには、東西ドイツの統一を支援します。そして、同年中にマルタでゴルバチョフ書記長と会談し、冷戦を終結させました。

マルタ会談実施に当たっては、政権内部から「会談は次期尚早である」との反対意見がでました。また、ソ連が会談の主導権を握るのではないかという不安も政権内部から出ます。しかし、ブッシュはフランスのミッテラン大統領やイギリスのサッチャー首相の勧めもあり、会談に同意します。

ベイカー国務長官

ベイカー国務長官

ジェイムズ・ベイカーはマルタ会談当時のアメリカの国務長官です。国務長官とは、アメリカの外港を担当する役職で日本における外務大臣に相当します。レーガン政権時代には首席補佐官や財務長官を務め、政治経験が豊富でした。

ブッシュ大統領との付き合いは古く、1970年にブッシュが上院議員選挙に出馬した時からブッシュを支援していました。マルタ会談後、ベイカーは湾岸戦争での多国籍軍結成に尽力します。国務長官退任後はブッシュ政権の首席補佐官として政権のかなめとして活動しました。

ソ連側

ゴルバチョフ書記長

ソ連書記長ゴルバチョフ

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ミハイル・ゴルバチョフはソ連共産党書記長で、ソ連の最高指導者でした。1985年に書記長に選出されると、停滞していた人事を刷新し社会主義体制の立て直しを図ります。ゴルバチョフがソ連立て直しのため提唱した改革路線がペレストロイカでした。

彼は低迷する経済を立て直すため市場経済の導入を図ります。また、1986年におきたチェルノブイリ原子力発電所の事故をきっかけとして積極的な情報公開(グラスノスチ)をおこないました。

外交面では新方針である「新思考外交」を打ち出しました。これは、これまで行ってきた東欧諸国への干渉をやめ各国の主権を尊重する施策です。新思考外交は東欧諸国の民主化を加速させ、東欧革命の引き金となりました。マルタ会談前、ゴルバチョフは東欧諸国の離反を食い止める新たな外交を行う必要性に迫られていたのです。

シュワルナゼ外相

シュワルナゼ外相

エドゥアルド・シュワルナゼはマルタ会談当時のソ連の外務大臣です。それまで、外交経験がないシュワルナゼの外相起用は諸外国の注目を集めました。彼はペレストロイカの推進者の一人であるヤコブレフとともにゴルバチョフ政権の中枢を担います。

彼は外務大臣になるとゴルバチョフと同じく人事の刷新を行いました。そして、ゴルバチョフの新思考外交を実現するため各国と交渉を重ね、マルタ会談実現の下準備をします。

ゴルバチョフの片腕と目されたシュワルナゼはソ連が大統領制に移行した時、副大統領候補と考えられていました。しかし、ゴルバチョフの大統領制導入などの政策が独裁に近づいていると考えた彼は1990年に突如、外相を辞任します。ソ連崩壊後は祖国グルジア(ジョージア)の大統領となりました。

会談で冷戦の終結を確認

マキシム・ゴーリキー内で会談する米ソ首脳

マルタ会談は冷戦を終結させた会談として有名です。しかし、この会談で何らかの合意をすることはありませんでした。では、この会談にどのような意義があったのでしょうか?それは、アメリカとソ連の首脳が冷戦の終結を宣言したということに意義があります。

ゴルバチョフは共同声明の中で「世界は一つの時代を克服し、新たな時代へ向かっている」と述べました。一つの時代とは冷戦のことです。これに対し、ブッシュ大統領は「我々は永続的な平和と東西関係が持続的な共同関係になることを実現」できると答えます。

もはや、両国・両陣営は武力に訴えることはなく、人類の恐怖となっていた核戦争の可能性はないのだと世界に宣言したかったといえます。ゆえに、冷戦はマルタ会談で終わったといわれるのです。

米ソ両国が冷戦終結に同意した理由

1945年のヤルタ会談以来、アメリカとソ連は冷戦を続けてきました。それまで対立を続けてきた両国が、なぜ、1989年のマルタ会談で冷戦を終えることができたのでしょうか。それは、両国が冷戦を継続できないほど経済が疲弊していたからにほかなりません。

双子の赤字に苦しむアメリカ

双子の赤字に苦しんだレーガン大統領

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冷戦終結直前の1980年代、アメリカは「双子の赤字」に苦しんでいました。当時のアメリカ大統領レーガンは減税と社会保障費の削減を柱とする「レーガノミクス」という経済政策を取っていました。しかし、ソ連には強硬姿勢で臨んだため国防費を削減できませんでした。そのため、アメリカは財政赤字に陥ります。

また、レーガン政権時代のアメリカは輸出不振で貿易収支が赤字となっていました。そのせいでアメリカは債務国から債権国へと転落していたのです。財政赤字と貿易赤字という「双子の赤字」で経済的に苦しんでいたアメリカは経済の立て直しが必要でした。レーガン政権を引き継いだブッシュ政権にとっても双子の赤字解消は必須の課題でした。

社会主義体制が完全に行き詰まったソ連

経済の停滞をもたらしたブレジネフ書記長

1980年代のソ連は社会主義体制が完全に行き詰まっていました。1964年に始まったブレジネフ政権は「老人支配」と揶揄されるほど変化に乏しい時代で、社会的な活力が失われていました。最も深刻だったのは経済の停滞です。

しかし、政治の実権を握っていた共産党官僚(ノーメンクラツーラ)は現状維持をよしとし、改革を行わないばかりか経済的な特権を持っていました。加えて、1979年に始まったアフガニスタン侵攻はソ連経済に大きなダメージを与えます。

こうした状況を立てなおしを期待されたのがゴルバチョフでした。彼はペレストロイカを実行し、ソ連経済の立て直しを図ります。経済を優先したいソ連にとって、もはやアメリカと軍拡競争を続ける余裕などありませんでした。

マルタ会談に関するまとめ

いかがでしたか?

今回はマルタ会談についてまとめました。マルタ会談は地中海のマルタで行われた会談で、米ソ両国の首脳がヤルタ会談で始まった冷戦が終結したことを宣言しました。

参加したのはアメリカのブッシュ大統領とベイカー国務長官、ソ連のゴルバチョフ書記長とシュワルナゼ外相などです。マルタ会談では具体的な決定事項はありませんでしたが、両国首脳が冷戦終結を宣言します。

この記事を読んで、マルタ会談とは何か、マルタ会談とヤルタ会談の違い、マルタ会談の参加者などについて、「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

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