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モンロー主義とは?背景や使い方、孤立主義の違いについて簡単に解説

「モンロー主義ってなに?簡単に教えてほしい」
「モンロー主義はなぜ提唱されたの?」
「モンロー主義と孤立主義の違いって?」

この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。

モンロー主義は、アメリカ外交の基本方針です。1823年にアメリカのモンロー大統領によって声明されたモンロー教書が元となっており、アメリカとヨーロッパは互いに干渉しないという内容です。

第二次世界大戦でモンロー主義は破棄されたも同然ですが、近年ドナルド・トランプがアメリカ大統領となったことにより話題にあがりました。

モンロー大統領

そこで今回は、モンロー主義の意味と背景を簡単に解説します。またモンロー主義が破棄された経緯や国際連合との関係、ジョンヘイなどの重要人物についてもご紹介します。ぜひ、参考にしてください。

モンロー主義とはなにか?

モンロー主義とはアメリカの外交姿勢

モンロー主義の考え方自体は初代大統領の時代からあったが、はっきり表明されたのはモンロー教書

モンロー主義とは、特にアメリカがヨーロッパ諸国に対して、お互いに干渉しないと提唱したモンロー教書の内容を指します。簡単に言うと、アメリカはアメリカでやっていきヨーロッパの国々には関わらないので、ヨーロッパ諸国もアメリカに関わらないでください、という意味です。

1823年にアメリカが議会の年次教書(大統領が連邦議会に対して発する意見書で、三権分立で議会が持つ立法権に大統領が関われる制度)で発表して以来、アメリカ外交の基本方針となりました。

モンロー主義は誰が提唱したのか

連邦議会。政府の立法機関

モンロー主義は当時のアメリカ大統領ジェームズ・モンローが提唱しました。

詳しくは後ほど解説しますが、モンロー主義の元となったモンロー教書はイギリスが提案したものです。そのため、ラテンアメリカの植民地支配の復活やヨーロッパ諸国の介入に反対するという声明を、イギリスと共同で発表する予定でした。

しかし、共同発表するには、イギリスへの不信感が高すぎました。

最終的にモンロー大統領は、国務長官であったジョンの単独宣言で声明を出すべきという意見を取り入れました。共同声明にした場合アメリカ自身の行動も制限される恐れがあったからです。

こうして、モンロー教書は、提案にあった植民地主義の否定に、アメリカとヨーロッパの相互不干渉を付け加えた形で発表されたのです。

モンロー主義の内容

モンロー主義によってラテンアメリカを勢力圏にしたアメリカの風刺画

モンロー主義の元となったモンロー教書の内容は、1823年12月に議会へ送られました。その内容は大きく分けて4つです。

  • ヨーロッパの戦争に干渉しない
  • 南北アメリカに現在存在する植民地や属領を認め、干渉しない
  • 南北アメリカの植民地化を、これ以上望まない
  • 現在、独立に向けた動きのある旧スペイン領に対する干渉は、アメリカの平和に対する脅威と受け止める

もともとアメリカの初代大統領ワシントンやジェファソン大統領は、他国と同盟を結ぶべきではないと表明していました。そのため、モンロー主義の考え方は昔からあったのです。

モンロー教書はこの考え方を取り入れ、さらにヨーロッパからの干渉を牽制するために南北アメリカ大陸への不干渉を含めました。

モンロー主義と孤立主義の違い

モンロー主義と孤立主義はほぼ同じ意味

モンロー主義と孤立主義はアメリカの外交姿勢として使われる言葉ですが、両者にはどういった違いがあるのでしょうか。結論から言うと、ほとんど違いはありません。

孤立主義とモンロー主義はほぼ同じ意味で、地域間でお互いに干渉しない姿勢を表す意味で使われています。両者の違いをあえてあげるなら、孤立主義は広い意味での言葉で、モンロー主義はモンロー大統領が提出した教書の内容で、アメリカの外交方針という意味あいが強いです。

どちらを使っても間違いではないのですが、孤立主義という言葉の方が、モンロー主義について知らない人に伝わりやすいでしょう。

モンロー主義の背景

ラテンアメリカの独立運動とウィーン体制

画像に写っている範囲がラテンアメリカ

モンロー主義がアメリカに根付いた背景はいくつかありますが、その一つにヨーロッパによる中南米大陸への干渉が挙げられます。

1799年に起こり、1815年に終結したナポレオン戦争は、スペインのアメリカ植民地への支配力を弱体化させました。戦争をしていたので、ラテンアメリカに構う余裕がなかったのです。独立したかったラテンアメリカ諸国にとってこれはチャンスで、彼らは次々に独立へと動き出しました。

しかし、1815年にウィーン会議が行われ、ヨーロッパが絶対王政を復活させて各国間の同盟が結ばれるとスペインにも余裕が生まれます。結果、スペインはラテンアメリカの植民地で起こった独立運動を鎮圧させようと動きはじめました。

フランス・オーストリア・ロシアは神聖同盟と呼ばれる君主間の同盟を結んでいた※画像は1840年のもの

スペインだけならまだよかったのですが、独立運動の鎮圧にフランスやオーストリア、ロシアも介入します。

なぜ三国が加わったのかというと、ヨーロッパ情勢が荒れた原因となった自由主義やナショナリズム(国民主体の国を作ろうという思想)が、ラテンアメリカの独立運動により再びヨーロッパで復活しては困るからです。

ヨーロッパ諸国の干渉は、ラテンアメリカへと勢力を伸ばしたいアメリカにとって不都合なものでした。そういった事情があり、孤立主義的なところはあれどそれを明確にしなかったアメリカはあえてモンロー教書を声明し、はっきりと孤立主義の姿勢を明らかにしたのです。

また、この声明には、西半球からヨーロッパ勢力を排除し、アメリカの覇権を確立するねらいもありました。

市場としてラテンアメリカを狙っていたイギリス

産業革命

独立運動に反対していたスペインらと違い、イギリスは独立運動を支持しました。

なぜかというと、ラテンアメリカが再びスペインやその他のヨーロッパ諸国の植民地に戻ってしまうと、自由に工業製品を売れなくなってしまうからです。このとき、イギリスでは産業革命が起きており、製品が国内で余っていました。

ラテンアメリカは後進地域だったため、製品の売り先として適していたのです。

そこでイギリスは、ラテンアメリカに干渉するヨーロッパ諸国を排除するため、外相のカニングを通じて干渉反対の共同宣言を提案しました。しかし、前述したようにイギリスへの不信感があったアメリカは共同宣言ではなく、単独宣言に踏み入りました。

ロシア南下政策への牽制

ロシアの首都モスクワ

ヨーロッパ諸国の干渉もアメリカにとって悩みの種でしたが、実はもう一つ大きな懸念がありました。

ロシアの南下です。ロシアが太平洋沿いに南下政策を図ってこないか、アメリカにとっては頭を悩ませる問題の一つでした。実際にロシアはベーリング海峡を渡って、アメリカ大陸西北端のアラスカにまで進出していました。

さらに1821年にロシアは「北アメリカ大陸の北緯51度より北をロシア領とする」という布告を出し、南下の姿勢を示しました。これは、ラテンアメリカへのヨーロッパ諸国の干渉とほぼ同時期に起こっており、両者を牽制するためにもモンロー教書によって立場を明らかにする必要があったのでしょう。

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