モンロー主義に関わった重要人物
ジェームズ・モンロー
ジェームズ・モンローは前述したようにモンロー主義のきっかけとなったモンロー教書を行ったアメリカの大統領です。
元は軍人で、1775年のアメリカ独立戦争にも参加していました。独立戦争後は政治家のトーマスについて法律を勉強し、アメリカ合衆国の上議員に選抜され、行政の経験を積みます。1812年に勃発した米英戦争では、マディソン大統領の下で国務長官・陸軍長官として重要な役割を果たします。
そうして1816年の選挙で80%の票を獲得し、アメリカの大統領となりました。フロリダ買収やミズーリ協定の制作などを行いましたが、彼の最も有名な功績はやはりモンロー教書です。
モンロー教書により、南北アメリカ大陸の支配権はヨーロッパに奪われることなく維持されました。これによってアメリカは国力を蓄えられ、今や世界一の大国となっています。
ジョン・ヘイ
ジョン・ヘイはアメリカの国務長官です。1899年にモンロー主義を破棄して中国の門戸開放宣言を行い、列強諸国による中国進出に割り込みました。門戸解放宣言とは
- 門戸開放
- 機会均等
- 領土保存
の3つの宣言で、詳しい内容は各国の商業・産業の機会を均等にし、列強諸国の中国領土分割に反対するという要求です。
なぜこのような宣言を出したのかというと、アメリカは中国分割競争に出遅れたからです。そのため、内容も中国分割においてアメリカが入る余地を作るものとなっています。
簡単にいうと、アメリカも製品を売りたいから機会を平等にしましょう。ついでにアメリカの分の領土がないのはずるいから、手に入れた中国の領土は、中国に返しましょう。という、アメリカ中心の内容です。
ジョン・ヘイが提唱した門戸解放宣言は、アメリカの伝統となっていたモンロー主義を捨てた最初の出来事でした。以降、以上の3つの宣言はアメリカの対中政策の基本となります。
フランクリン・デラノ・ルーズベルト
フランクリン・デラノ・ルーズベルトは1933〜1945年のアメリカ大統領です。世界恐慌のまっただ中にいたアメリカでニューディール政策(恐慌に対する金融政策)を掲げ、大統領選を勝ち抜きました。
ルーズベルト大統領は当時、アメリカに根強く残っていたモンロー主義を転換させるきっかけになりました。第二次世界大戦が勃発してから、ルーズベルト大統領はファシズムに対する戦いを支援する動きを見せます。
法律を改正してイギリスへの武器輸出を開始したり、英米首脳会議を行い戦後の国際協調への同意をしたりと水面下で動いていました。ルーズベルトとしては正式に参戦したかったのですが、国内に残るモンロー主義が戦争への参加を許してくれなかったからです。
参戦の機会が訪れるのを待っていたところ、日本が真珠湾攻撃を行いました。ルーズベルト大統領はこの機会を逃さず、従来のモンロー主義を破って戦争へ正式に参戦します。
第二次世界大戦が終結する前にルーズベルト大統領は病死してしまうのですが、彼のリーダーシップは国際連合の設立に重要な役割を果たしました。
モンロー主義の展開と破棄
モンロー主義の拡大解釈
モンロー教書が示されて以来、アメリカはヨーロッパの干渉を受けることなく発展していきました。しかし19世紀末になるとヨーロッパでは帝国主義が台頭し、植民地競争が行われました。アメリカもこの流れに巻き込まれます。
アメリカのセオドア大統領はモンロー主義を拡大解釈し、カリブ海への武力干渉を行いました。拡大解釈されたモンロー主義は、1904年に年次教書として提出されます。
その内容は、ヨーロッパ諸国の中南米への干渉は許さず、また、アメリカの国益を守るためであればアメリカ自身が干渉する、というものです。
「慢性的な不正と無能」に陥っている中南米諸国に対して、アメリカが国際的警察力としてカリブ海へ干渉を行うのは正統な行為であると主張しました。簡単に言うと、カリブ海はアメリカのものだからヨーロッパは手を出すな、と発言しています。
以上のようなカリブ海政策は、セオドア大統領の言葉
「speak softly and carry a big stick」(棍棒を携え、穏やかに話す)
から、棍棒外交と呼ばれました。
国際連盟への不参加
第一次世界大戦が終わりましたが、戦争がもたらした被害は大きなものでした。あまりにも悲惨な爪痕に、アメリカのウィルソン大統領は世界から戦争をなくすべく、国同士の関係を改善するために国際連盟を提唱しました。
しかし、ウィルソン大統領の考えはモンロー主義が根付いたアメリカ国内で承認を得られませんでした。そのため、提唱したにも関わらず、アメリカは国際連盟不参加となりました。
拡大解釈により変質が見られるとはいえ、この頃まではモンロー主義がアメリカに残っていました。