白瀬矗とはどんな人?生涯・年表まとめ【子孫や名言も紹介】

白瀬矗とは、日本人で初めて南極へ行った探検家です。幕末から昭和という激動の時代に、前人未到の極地に行きたいという幼い頃の夢を抱き続け、見事に南極探検家として名を成しました。クイズノックでも白瀬矗の偉業について出題されていましたね。

白瀬矗

現在も昭和基地では南極観測が続いていますが、日本が観測が始められるきっかけを作ったのは白瀬矗です。彼の南極探検は戦前のことでしたが、その実績が評価され、戦後に日本は諸外国との共同南極観測の一員に加わることができたのです。

この記事では、日本人として初めて南極に行きたい!という、明治人らしい「てっぺんを目指した」白瀬矗の生き方を、その功績やおすすめの書物などと共にご紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

白瀬矗とはどんな人物か

名前白瀬矗(幼名:知教)
誕生日1861(文久元)年6月13日
没日1946(昭和21)年9月4日
生地出羽国由利郡金浦(このうら)村 ※現在の秋田県にかほ市金浦
没地愛知県西加茂郡挙母町(現豊田市)
配偶者ヤス(旧姓:管原)
埋葬場所秋田県にかほ市金浦南金浦226(実家・浄蓮寺境内)、愛知県西尾市吉良町瀬戸宮西13(西林寺・瀬門神社境内)、横浜市港南区日野中央1-13-1(日野公園墓地)

白瀬矗の生涯をハイライト

白瀬矗の故郷にある白瀬矗とペンギンの銅像

白瀬矗は1861年に秋田で生まれました。寺子屋の師匠から北極の話を聞いて魅了され、いつか行こうと心に決めます。児玉源太郎という稀代の名将との出会いによって、白瀬は探検家としての経験を積むことができました。

南極へ行くための資金は、白瀬の熱意を買った、大隈重信を筆頭とした多くの著名人が集めてくれました。多額の寄付金が集まったものの、探検費用としては足りずに、白瀬は借金を背負うことになります。

しかし渡航費用を政府が支払わなかったことは、結果的に白瀬の命を救ったとも言えます。なぜなら大隈が、資金難に喘いでいた白瀬に、「南極点に辿り着くことよりも学術調査を主目的とするなら資金を用立てる」と伝えたため、白瀬も無理に南極点へ辿り着こうとせず、途中で引き返す決断をしたのです。

ペンギンの剥製

白瀬たちの持ち帰った学術調査は大変貴重なもので、今も残されています。そのうちの一つがペンギンの剥製です。日本初の南極海域で捕獲されたペンギンとして明治天皇に献上されました。

帰国後は南極探検の費用がかさみ、借金の返済に追われました。晩年も間借りの家で暮らしており、そこで息を引き取るという寂しいものでした。

白瀬矗に子孫はいる?

世界一周を終えた白瀬京子(左)

1970年、日本人として初めて小型ヨットによる世界一周航海をした白瀬京子は、白瀬矗の弟の孫です。

白瀬矗の功績

功績1「日本人として初めて南極に行く」

出発前の南極探検隊
出典:国立国会図書館

白瀬が南極へ行ったのは明治末期です。当時の日本は探検費用を政府が出す余裕もない国家でした。そんな中、白瀬矗は南極行きを実現させています。それ自体がまず偉業と言っていいでしょう。

南極の地で笑顔のロバート・スコット

白瀬の南極探検は、探検隊全員を帰還させたことが特に評価されています。同時期に南極へ行ったイギリスのロバート・スコット隊は、南極点には到達したものの、その帰途で遭難し、全員が命を落としました。

南極へ学術探検隊を派遣することを報道した新聞記事(1955年)

また、白瀬が南極へ行ったことは、戦後の日本の南極観測参加にも大きな助けになりました。1955年の国際地球観測年に日本が参加を表明した際には、日本は敗戦国であり当初は資格無しとされていました。しかし白瀬の実績が確認され、日本は南極観測の一員に加えられることになったのです。

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