1896〜1909年 – 35〜48歳「夢を叶えようと努力する日々」
千島経営請願やアラスカ滞在
1900年、白瀬は帝国議会へ千島経営の請願書を提出しますが申請は通りません。内地にいても仕方がないと考えた白瀬は、北緯70度付近のエスキモー領で半年を過ごし、極地の酷寒に耐えうる身体作りに一層努めます。
日露戦争
1904年に日露戦争が勃発し、白瀬も出征しました。負傷するも無事に帰国します。
目標を南極探検へ変更
1909年4月6日、アメリカの探検家ロバート・ピアリーが北極点の踏破に成功したという報道が流れます。白瀬は目標を南極に変更することにしました。前人未到の南極大陸に日章旗を掲げ、日本の意気を諸外国に示すこと、そして学術上の研究調査をすることが、白瀬の南極探検の目的となりました。
また、イギリスのロバート・スコットが1910年に南極へ出発するという予定もあり、白瀬はスコットに負けてはならないと、すぐさま準備に取り掛かります。
1910〜1912年 – 49〜51歳「南極探検」
議会へ費用の請願を行う
1910年、白瀬は帝国議会へ南極探検に関する経費として10万円を請願しますが、政府は資金を支給しなかったため、白瀬は渡航費用を自ら捻出しなければいけない状況になりました。
南極探検後援会
白瀬は一般国民の援助を取り付けようと、南極探検発表演説会を開催します。寺内正毅や犬養毅など、錚々たる名士が白瀬の南極探検に理解を求めるべく、弁を振るいました。会は大いに沸き、南極探検後援会が発足し、大隈重信を後援会会長に迎えます。
南極へ出発
11月29日、芝浦埠頭を出航し、南極探検へと向かいます。
1911年2月8日、食料補給のためウェリントン港に入港、南極へ向かいます。しかしすでに南極の夏は終わろうとしていた時期で、氷塊に阻まれて前進できなくなり、やむなくオーストラリアへ引き返しました。
目標は科学調査と領土獲得へ
1911年5月11日、一行はシドニーへ入港しテント生活を送ります。南極の夏の訪れを待つためでした。
11月19日、南極到達を目指して再度出港します。12月14日にはノルウェーのロアール・アムンセン率いる探検隊が南極点に初到達したため、白瀬は目標を南極点踏破ではなく科学調査と日本の領土獲得に変え、探検を続けることにしました。
大和雪原
1912年1月16日、南極ロス海ホエールベイ(鯨湾)に到着します。1月20日、白瀬は南極点を目指しました。しかし食糧不足などの諸事情により、9日目にして282キロ進んだ地点で南極点到達を断念します。
1月28日午後0時20分、南緯80度05分・西経156度37分の地点に日章旗を立て「大和雪原」と命名し、日本領土を宣言しました。ただし、この地帯は棚氷であり、領地にできる陸地ではないことがのちに判明しています。
日本へ帰国
1912年2月4日、白瀬たち一行は日本への帰途につきました。6月20日に芝浦へ到着すると、約50,000人の市民が集まり歓迎式が開かれました。