白瀬矗の名言
人間は目的に向かって剛直に、まっすぐ進むべき。普通の人なら「直」は1つでいいが、私のような人間が2倍も、3倍も努力するためには、「直」が3つ必要なのだ。
白瀬が「知教」から「矗」に改名した時の言葉です。改名したのは軍人になった時なので、父の後継として僧侶とならずに、必ず極地探検家になるという決意の表れといっていいでしょう。
世間の毀誉褒貶(きよほうへん)というものは、雲か霧のようなものだ。山が泰然としていれば、雲や霧が動いたとて、何ほどのことがあろう。やがて晴れる時が来るに違いない。
驚くべきことに、白瀬たちが南極へ行くときに使った開南丸は木造船で、しかもわずか204トンという小型の船でした。そのため、こんな船で南極に行けるはずがないと馬鹿にするものも多くいたのです。そんな世間の声に対して動揺する探検隊員たちに白瀬が語ったのがこの言葉です。隊長の言葉は、隊員たちをどれだけ勇気づけたことでしょうか。
白瀬矗の人物相関図
白瀬矗にまつわる都市伝説・武勇伝:「千島探検で死にかける」
白瀬が行った千島探検は、生きて帰ってきたことが奇跡とも思えるものでした。着くまでに暴風雨で19名が死亡。千島列島の占守島で白瀬は冬を越しますが、幌莚島と捨子古丹島の10人は全員命を落としました。
さらに白瀬は他5名と共にあと1年占守島に残ります。しかし3名は壊血病にかかって冬を越せず、白瀬は仲間の死骸と共に数ヶ月を過ごしました。内地へ戻る船が来るのがもう少し遅ければ、白瀬も餓死していたかもしれません。
白瀬矗の生涯年表
1861〜1878年 – 1〜17歳「わんぱく小僧が探検家という夢を抱く」
武勇伝だらけの少年時代
白瀬矗は1861(文久元)年6月13日に、白瀬知道・マキエ夫婦の長男として生まれました。父は寺の住職でした。白瀬は近所でも有名なわんぱく小僧だったようです。
佐々木雪斎先生との出会い
1870年から佐々木雪斎の教える寺子屋に通うようになります。佐々木の影響で、コロンブスやロビンソンなどの探検記が愛読書になり、冒険が大好きな少年に成長します。
佐々木の北極の話がきっかけで白瀬は探検家になる夢を抱きます。佐々木は白瀬に、探検家になるために「酒を飲まない」「煙草を吸わない」「茶を飲まない」「湯を飲まない」「寒中でも火にあたらない」という5つの戒めを守り抜くように言い、白瀬もそれを生涯貫き通します。
1879〜1895年 – 18〜34歳「千島探検」
陸軍に入隊
白瀬は探検家になる夢を追い求めるため軍人を目指すことにし、1879年に陸軍教導団騎兵科に入ります。1887年には宮城県仙台市出身の娘・やすと結婚しました。
児玉源太郎と出会う
児玉源太郎との出会いが、白瀬の探検家人生の扉を開きます。1890年、児玉と話をする機会を得た白瀬は、北極探検へ行きたいと願い出ました。すると児玉は、北極へ行きたいならまずは極地で生き抜ける身体を作ることが先決だと答えます。
千島探検
1893年、白瀬は千島探検隊に参加します。探検計画が杜撰だったため、白瀬も危うく死にかけましたが、極地で生きるための身体作りという目標は達成します。