倭寇とはどんな人達?前期・後期に分けて歴史を分かりやすく解説

前期倭寇とは?

前期倭寇の拠点の一つとなった松浦地方
出典:Wikipedia

前期倭寇とは、13世紀から14世紀にかけて、朝鮮半島沿岸や中国の黄海沿岸で活動した海賊のことです。九州北部を根拠地とし、日本人と一部の高麗人によって構成されました。倭寇を構成していた人々は対馬や壱岐、松浦などの武士たちだと考えられています。

彼らは朝鮮半島などから米や人を略奪しました。捕らえられた人々の一部は琉球などに売却されます。また、高麗政府が自国民を「購入」して解放することもありました。高麗は日本に倭寇禁圧を求めます。

しかし、南北朝の騒乱のさなかにあった日本は積極的に取り締まることができませんでした。倭寇の出没に手を焼いた高麗は、倭寇の根拠地とみなした対馬を襲撃し、町を焼き払います。高麗滅亡後、半島に成立した朝鮮王朝も倭寇との戦いを継続しました。

原因は東アジアの混乱

前期倭寇が活動を活発化させることができた理由は、東アジア各地で混乱が起きていたからです。中国では紅巾の乱、日本では鎌倉幕府の滅亡と南北朝の争乱、朝鮮半島では高麗王朝の衰退といったことがおきました。これに乗じ、倭寇は活動を活発化させたのです。

元王朝末期の混乱

13世紀に世界各地を征服した元は、14世紀になると衰退の兆しを見せました。その原因は3つあります。一つ目は巨額の財政赤字です。元の支配者層が信仰していたチベット仏教への多額の出費や宮廷・モンゴル人貴族たちによる浪費などが原因で元は財政難となりました。

元で発行された紙幣、交鈔

これを補うため、元は紙幣である交鈔を乱発したり塩への増税を行いました。二つ目は帝位継承の争いです。内乱の勃発により元の軍事力は弱体化します。そして三つ目は黄河の氾濫です。増税や黄河の氾濫に苦しんだ民衆は異民族の王朝である元への反発を強めました。

紅巾の乱によって群雄割拠状態となった中国

1351年、黄河の治水事業への強制徴発が原因となり紅巾の乱がおきました。この反乱のリーダーとなったのが新興宗教である白蓮教の指導者、韓山童でした。戦いのさなか、彼自身は元に捕らえられ殺されます。しかし、反乱は全くおさまらず中国全土に拡大しました。

南北朝の争乱

鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇

日本では1333年に鎌倉幕府が滅亡しました。幕府を倒した後醍醐天皇は建武の新政をおこないます。しかし、貴族中心の政治は武士たちの反感を買い、建武の新政に反発する人々は足利尊氏をリーダーとして後醍醐天皇に歯向かいます。

足利尊氏は新田義貞や楠木正成といった後醍醐天皇配下の武将たちとの戦いに勝利し京都を占領します。そして、後醍醐天皇にかわって光明天皇を擁立しました。一方、後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、京都奪還を目指します。こうして、日本には二つの朝廷が並立する南北朝時代が到来します。

征西将軍として九州に下った懐良親王

南北朝の争乱は京都だけではなく全国各地に広がりました。倭寇の根拠地である九州も例外ではありません。後醍醐天皇は息子の一人である懐良(かねよし)親王を征西将軍に任じ、九州に派遣しました。懐良親王を奉じる南朝方は九州で優勢に立ちます。

高麗の衰退

前期倭寇の襲撃を受けた高麗

高麗は918年に王建が建国した国です。13世紀になると北からの元の圧力に屈し、属国となりました。13世紀後半の元寇では元軍の一翼を担い九州北部を攻撃します。この間、高麗は元からの内政干渉をたびたび受け、常に元の意向をうかがわざるを得ない立場に置かれます。

14世紀中ごろ、元は紅巾の乱によって大混乱に陥りました。この機に乗じ、高麗は元から独立します。しかし、同じころ活発化した倭寇の略奪に苦しみました。14世紀後半になると、優秀な人材に恵まれ、倭寇との戦いでも優位に立つようになります。

ところが、今度は高麗国内で親元派と親明派の内紛が発生しました。明は元をモンゴル高原に追い出したといっても、元の軍事力はとても強力なのでどちらにつくべきか判断に迷ったとしても不思議はありません。こうして、高麗は混迷を深めていきました。

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