前期倭寇の衰退
前期倭寇は東アジア情勢が安定化するにしたがって衰退していきます。中国では元にかわって明が成立しました。日本では足利義満が南北朝の争乱を制し、倭寇の禁圧に乗り出します。また、不安定だった高麗は将軍の李成桂にほって滅ばされ、朝鮮王朝が始まります。
明王朝の成立
1368年に紅巾の乱の混乱で頭角を現した朱元璋が明を建国しました。朱元璋は貧農の家に生まれ、乞食坊主として生きながらえていました。紅巾の乱がおきると反乱軍の一員となります。すると、彼は反乱軍の中で一目置かれる存在となり、リーダーの一人となりました。
1360年頃になると、朱元璋は中国南部に一大勢力を築くことに成功します。そして、陳友諒や張士誠といったライバルたちに勝利し、南京で明の皇帝となりました。地方有力者の協力も得た朱元璋は紅巾の乱を鎮圧する側に回りました。
そして、1368年の8月に元の都である大都を陥落させ、元をモンゴル高原に追い出しました。以後の元を北元とよびます。皇帝となった朱元璋は強力な中央集権国家をつくりあげます。さらに、日本に対して倭寇の禁圧を要求しました。
足利義満の倭寇取り締まり
南北朝の争乱で優位に立った北朝の足利義満は、明からの要請に応じ倭寇を取り締まりました。彼が倭寇取り締まりに乗り出した理由は、明と正式な国交を開き、貿易を行うためです。義満は九州での倭寇取り締まりに力を入れます。
また、義満は南北朝の合一も成し遂げました。これで、二つに分かれた朝廷が一つになり、朝廷の分裂に終止符が打たれます。こうして、日本では将軍足利義満のもとで室町幕府が安定期を迎えました。九州北部の武士たちも幕府の統制に従ったため、一時的に倭寇は衰退します。
国内を安定化させ、倭寇の取り締まりを強化した足利義満は1402年に明に使者を派遣します。即位直後の永楽帝は義満の使者を喜んで迎え、日明貿易(勘合貿易)が始まりました。
李成桂が朝鮮王朝を建国
高麗では倭寇討伐で名を挙げた将軍の李成桂がクーデタを起こしました。李成桂は親明派官僚の支持の下、恭譲王を即位させ政治の実権を握ります。そして、1392年に恭譲王を廃して自分が国王に即位しました。李成桂が建国した王朝は朝鮮王朝とよばれます。
朝鮮王朝は高麗が行っていた倭寇との戦いを引き継ぎました。足利義満の死後、一時的に日明関係が悪化したことにより倭寇が勢力を拡大したため、4代国王世宗が対馬を攻撃しました(応永の外寇)。しかし、戦いは10日で終結し朝鮮は対馬の宗氏と関係を修復します。その結果、再び倭寇は沈静化しました。
後期倭寇とは?
後期倭寇とは15世紀から16世紀にかけて、中国の南部沿岸地域や台湾、フィリピンなど襲撃した海賊のことです。彼らは海賊というより武装した密貿易商人でした。後期倭寇の特徴は日本人だけではなく多数の中国人が参加していたことです。
明王朝は北からモンゴル人と南部沿岸の倭寇に苦しみます。明はこのことを「北虜南倭」とよびました。このように、強大な勢力を誇った後期倭寇でしたが、スペイン・ポルトガルの進出や豊臣秀吉による海賊停止令によって衰退します。
原因は明の海禁政策
明を建国した朱元璋は、民間人の海外貿易を禁止する命令を出しました。この命令を「海禁」といいます。明は国が認めた貿易以外を禁じたと考えてよいでしょう。大きな利益が見込める海外貿易から締め出された民間の貿易業者は倭寇となって密貿易で利益を上げます。
海禁政策とは?
海禁政策とは、明や清が行った民間人の海上貿易を禁止する政策のことです。海禁と一口に言っても、すべての貿易活動を禁止する厳しいものから、一部商品の取り扱い禁止などの緩やかなものまで幅がありました。
海禁政策を始めたのは明を建国した朱元璋(洪武帝)です。彼が海禁政策を行った理由は倭寇を取り締まるためでした。また、沿岸部の人々の行動を制限することで明に従わせようという意図があったともいわれます。
とはいえ、明・清の時代に海外貿易が全く行われなくなったかといえば、そうではありません。明の時代には貢物に対する返礼という形で貿易を行う朝貢貿易が行われます。日本の勘合貿易もその一つでした。
密貿易の活発化
海禁政策は、宋や元の時代に盛んだった民間貿易に大打撃を与え衰退させました。それでも貿易を行いたい人々は、国の取り締まりを逃れて密貿易を行います。密貿易の主な取扱品は中国産の生糸と日本産の銀でした。
中国産、特に長江下流域で生産される高品質の生糸は「湖糸」とよばれ輸出の目玉商品になります。また、室町時代後期の戦国時代から江戸時代にかけて、日本は世界屈指の銀産地でした。密貿易商人はこれらの魅力的な品物を扱うことで莫大な利益を上げました。