倭寇とはどんな人達?前期・後期に分けて歴史を分かりやすく解説

大倭寇とよばれた王直の登場

王直は後期倭寇で最も有名な人物で、大倭寇と呼ばれました。彼の本名は王鋥(おうとう)といいます。もともと、安徽省出身の塩商人でした。しかし、塩業ではうまくいかず、仲間の徐惟学や葉宗満らとともに密貿易をはじめました。

王直は浙江省の寧波周辺を根拠地とし、東南アジアや日本との交易をおこないます。明王朝による密貿易の取り締まりで討伐を受けると、根拠地を舟山列島に移しました。そこで大規模な海賊集団を組織し、徽王と称します。この段階で、彼は徐海とならぶ頭目と目されます。

王直が移住した五島列島

そして、王直は長崎県の五島列島に移住し、平戸の松浦隆信と親交を深めます。このころには、彼は日中間の貿易に欠かすことができない人物となりました。

晩年、王直は明の政府に「自分は、もはや倭寇ではない」と訴え恩赦を得ようとします。明はこのことを利用し、官位をちらつかせ王直を投降させます。しかし、王直は官位を得るどころか捕縛され処刑されました。

後期倭寇の衰退

スペイン・ポルトガルの進出

16世紀前半になると、ヨーロッパからスペインやポルトガルの船が東アジアに来航します。ポルトガルはインドのゴアやマラッカ王国を制圧し、中国南部のマカオを拠点として貿易を行います。スペインはフィリピンを占領し、植民地化したメキシコとの間で貿易航路を開きます。

南蛮貿易を描いた「南蛮屏風」の一部

スペイン人やポルトガル人は中国産の生糸に加えて、鉄砲や大砲など最新の西洋の武器や火薬の原料である硝石も運んでいました。そのため、多くの戦国大名がスペイン人やポルトガル人と交易をおこないます。これを、南蛮貿易とよびました。

彼らの狙いは日本産の銀でした。高品質な中国産生糸を日本に持ち込むことで、その代価として銀を得ようとしたのです。生糸という同じ商品を扱う強力な競合相手の出現は密貿易商人である倭寇にとって大きな打撃となります。

豊臣秀吉の海賊停止令

海賊行為を禁止し、倭寇の活動にとどめを刺した豊臣秀吉

織田信長の後継者争いに勝利した豊臣秀吉は、関白に就任し天下人に上り詰めました。1587年には倭寇の根拠地である九州を平定します。九州を手にした秀吉は1588年に海賊停止令を発布します。

秀吉が海賊衆とよばれる海を支配する武士たちに次の3つのどれかになることを命じました。一つ目は、豊臣政権傘下の大名になること。二つ目は特定の大名の家臣となること。三つ目は武装を放棄し、百姓となることでした。同時に、秀吉は海賊衆が船から警固料を取ることも禁じます。

海賊停止令は五島列島や松浦、対馬、壱岐などにいた倭寇たちにも適用されました。それと同時に、秀吉は公式の貿易である朱印船貿易を奨励します。この方針は徳川家康にも引き継がれました。こうして、倭寇は貿易から分離され、歴史の表舞台から姿を消します。

倭寇を題材にした作品

『倭寇―海の歴史』

この本は、「倭寇」というものを単なる海賊としてではなく海に生きる民としてとらえなおした本です。倭寇が日本人だけではなく、中国人や朝鮮人なども含むことや密貿易商人としての倭寇の姿、東アジア世界での倭寇の立ち位置などについて整理しています。

江戸時代以前、日本人が東アジアだけではなく東南アジア各地で活躍していました。そのことを強く意識させる内容です。倭寇は「日本版大航海時代」の申し子だったと理解できる一冊です。

『戦神/ゴッド・オブ・ウォー』

この映画「戦神/ゴッド・オブ・ウォー」は2017年に中国と香港の共同制作で作られました。主人公は倭寇討伐で名を挙げた戚継光です。彼は倭寇討伐だけではなく、北方警備でも活躍しモンゴルのアルタン・ハンとも戦って功績を立てました。

北虜南倭の両方に勝利した戚継光は「戦神」の名に恥じない名将です。また、戚継光とともに戦った兪大猷をサモ・ハン(1998年にサモ・ハン・キンポーから改名)が出演したことでも話題となりました。

まとめ

いかがでしたか?

今回は倭寇についてまとめました。倭寇とは、13世紀から16世紀にかけて東アジアや東南アジアで活動した海賊のことです。前期倭寇は日本人が主体、後期倭寇が中国人が主体とされています。

倭寇は海でとても強い力を発揮しましたが、東アジア各国の安定化や豊臣秀吉の海賊停止令などにより衰退します。

この記事を読んで、倭寇とは何か、倭寇がどんな人々から成り立っていたか、倭寇の強さなどについて「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

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