湯川秀樹の生涯年表
1907〜1925年 – 1〜18歳「教養を深めた学生時代」
漢文を学んだ幼少期
1907(明治40)年1月23日、小川琢治と小雪の三男として秀樹は生まれました。なお、「湯川」の姓は結婚後のものです。父が京都帝大の教授となり、1歳の時に京都へ引っ越します。
小学校へ上がる前から、祖父より四書五経の素読を学びます。
頑固な性格が現れる青年期
1919年に京都府立京都第一中学校、1923年に第三高等学校に進学します。
湯川秀樹は物事に熱中すると止まらず、頑固な性格だったようで、この性格がのちの研究スタイルに繋がっていきます。また中学校の校長も、彼の天才的なひらめきを評価していました。成績が良いか悪いかというより、その着想の鋭さを高く買ってくれる大人が周囲にいたことも、彼にとって幸運だったと言えるでしょう。
量子力学との出会い
高校生の時に、湯川秀樹は本屋で運命的な一冊の本と出逢います。フリッツ・ライへの「量子論」です。この本をきっかけに大学で物理学を極めようと決めるのです。
1926〜1931年 – 19〜24歳「理論物理学の世界へ」
京都大学へ入学
1926年、湯川秀樹は京都帝国大学理学部物理学科に入学します。1927年、2人の若き天才ハイゼンベルグ(1932年ノーベル物理学賞受賞)とディラック(1933年ノーベル物理学賞受賞)の講演を京都で聴いたことがきっかけで、湯川秀樹と朝永振一郎は、量子力学を専攻したいと思うようになります。
1929年に卒業後、二人とも大学に残り、理学部副手として理論物理学の研究を続けます。
原子核と量子電気力学
この頃の湯川秀樹は、原子核と量子電気力学を研究していました。当時、この分野は全く説明がつかない矛盾を抱えており、新しい研究対象でした。湯川秀樹は大好きなテニスを我慢してでもこの研究に集中しようと、自らを戒める言葉をノートに残しています。
1932〜1935年 – 25〜28歳「中間子理論の誕生」
湯川家の入婿となる
1932年、秀樹は湯川スミと見合い結婚をして湯川秀樹となりました。
苦しんだ末の新理論
後年、湯川秀樹自身が「最も苦しかった2年間」と評していたのがこの時期は、原子核に関する疑問はあるものの、そこに対するアプローチが見つからず悩んでいました。
1933年大阪大学の八木秀次教授に出会い、湯川秀樹は前年から務めていた京都大学理学部講師に加え、大阪大学理学部講師を兼ねるようになります。当時の大阪大学は新設されたばかりで、若い研究者が集まって切磋琢磨している組織でした。湯川秀樹もその中にあって、大きな刺激を受けます。
1934年、湯川秀樹は新理論を発表します。核力を説明するための新しい粒子、つまり中間子の存在を予言したのです。
妻・スミは1933、1934年と二人の息子を出産していました。そんな中でも夫に、早く英語の論文を書いて世界に発表するように急かしました。1935年、彼の初めての論文が学会雑誌に掲載されました。「素粒子の相互作用について 」という論文でした。中間子理論の誕生です。