1936〜1940年 – 29〜33歳「世界に注目される」
中間子論への注目が高まる
湯川秀樹が論文を発表した当初、朝永振一郎など周囲の人間は評価したものの、海外からは関心を持ってもらえませんでした。しかし、湯川秀樹が予言した質量の粒子が、地上に降り注いでいる宇宙線中に見つかり、彼の理論は俄然注目を集めるようになります。
1936年には大阪帝国大学助教授に就任、国内で湯川秀樹の名前が知られるようになりました。1938年には大阪帝国大学で理学博士の学位を授与されます。
世界の「ユカワ」
1938年には第8回服部報公賞を受賞、1939年には京都帝国大学の教授に迎えられます。1939年、ソルべー国際物理学会議に招かれ、日本からは初めての招待者となりました。しかし第二次世界大戦が勃発したため、会議は中止となります。
しかし湯川秀樹はアメリカへ渡り、アインシュタインをはじめとした数多くの物理学者を訪問し、研究上の議論を行い、講演会を開くなど意義のある時間を過ごしました。
1940年には帝国学士院恩賜賞、1941年には野間奉公会学術賞を受賞し、誰もが認める世界の物理学者となりました。
1941〜1945年 – 34〜38歳「太平洋戦争」
教育の継続
1941年12月、日本はアメリカとの戦争を始めます。そんな中でも湯川秀樹は国内で唯一の原子核理論・素粒子論の教授として、教育に携わり続けます。
1942年には東京大学教授を兼任し、集中講義を行いました。学生は勤労動員されていましたが、キャンパスに戻ることがあれば集中して指導を行いました。
研究の継続
次世代を担う学生の養成だけではなく、自身の研究も継続していました。宇宙線理論や素粒子の研究を、文部科学省の研究費の助成を受けて実施しています。
軍事研究
1943年、「科学研究の緊急整備方策要綱」が閣議決定されます。理論物理学者も「転進」し軍事研究に参加することになります。湯川秀樹は1943年に文化勲章も受賞しており、その才能に軍部からの期待も大きかったと考えられます。
1944年1月下旬ごろから各種の軍事研究関連の会合に秀樹は参加しています。航空機、電波兵器、発動機、熱線吸着爆弾など湯川秀樹に研究の協力依頼がありました。
京都帝国大学の荒勝文策が行っていたF研究にも湯川秀樹は参加していました。どの程度深く関わっていたかについては、戦後アメリカにより調査が行われましたが、実論にはほとんど関係しておらず、湯川秀樹は戦時中も純粋物理学の研究に没頭していたと結論づけられています。
1946〜1949年 – 39〜42歳「ノーベル賞受賞」
湯川理論の証明
1947年、実験により湯川秀樹の提唱した中間子の存在が確認され、その理論が実証されました。1948年にはその功績を買われてプリンストン高等学術研究所客員教授としてアメリカへ渡ります。1949年にはアメリカ科学学士院客員、コロンビア大学教授となり、ニューヨークへ移りました。
ノーベル物理学賞
1949年、核力に関する中間子理論により、湯川秀樹はノーベル物理学賞に輝きました。日本人として初めての受賞であり、このニュースは戦後の復興に尽力する日本人の背中を押す快挙として大きく報道されます。
1950〜1954年 – 43〜47歳「若い科学者の育成」
病に倒れる
1950年、湯川秀樹は広がった素粒子を対象にした「非局所場の理論について」という論文を発表します。しかし過労により、神経性胃腸障害を起こしてしまいます。
若い科学者を育てたい
1953年、京都大学は基礎物理学研究所を新設して湯川秀樹を所長を任命します。ここは日本初の共同利用研究所となりました。大阪大学名誉教授にも就任します。
湯川秀樹は母校で直接指導もしましたが、それだけでなく学生たちが研究を続ける土壌を作ったことで、日本の理論物理学は大きな発展を遂げていきました。現在、日本出身のノーベル物理学賞受賞者は11名いますが、湯川秀樹の影響を受けた人がほとんどです。