マリリンモンローとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因、功績についても紹介】

「マリリンモンローの魅力って、セクシーさ以外にどこにあるの?」
「マリリンモンローって、本当はどんな人だったの?」

この記事を読んでいるあなたは、マリリンモンローについてこのように思っているのではないでしょうか。

マリリンモンローはアメリカの女優です。1950年代を中心に活躍し、日本でもとても人気がありました。実際に女優となってから亡くなるまではわずか16年ですが、その間に出演した作品は今でも多くの人々の心に残り、DVDで楽しんでいる人も多いはずです。

代表作の1つ「七年目の浮気」の名シーン

今でも人気のあるマリリンモンローですが、実はマリリンにはそれまでの女優とは違ったところがありました。ただ可愛らしく美しいだけの女優ではなかったのです。彼女は綿密な計算を行って、自分をどのように見せるかを考え、自らを演出する能力を持っていました。また、実行力も持ち、演技にも妥協を許しませんでした。

そこで今回は、大女優マリリンモンローの人生を紐解いていきます。

かつては私もマリリンモンローはお色気だけの存在だと思っていました。ですが、自分が年齢を重ねるにしたがい、今は同じ女性として、とても尊敬しています。この記事を通して、ぜひマリリンの女優、そして先駆者としての人生を皆さんに知って欲しいです。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

マリリンモンローとはどんな人物か

名前マリリン・モンロー
本名はノーマ・ジーン・ベーカー
誕生日1926年6月1日
没日1962年8月5日
生地アメリカ合衆国
カリフォルニア州
ロサンゼルス
没地アメリカ合衆国
カリフォルニア州
ブレントウッド
配偶者ジム・ドハティ
ジョー・ディマジオ
アーサー・ミラー
埋葬場所ロサンゼルス
ウエストウッド・メモリアルパーク

マリリンモンローの生涯をハイライト

もっともマリリンモンローらしい写真

1926年、マリリンモンローはアメリカのロサンゼルスで生まれました。彼女が2歳のときに両親が離婚、母親も精神の病を患ったために、幼少期をほぼ孤児院と里親の家庭を転々としながら過ごすことになりました。

16歳で最初の結婚をした後、工場勤務をしていたときに、マリリンの写真が雑誌に掲載されました。それがきっかけになって、彼女はモデル・女優としての道を進むことになります。

芸能活動に難色を示した夫とは離婚して、懸命に女優への道を進んだマリリンは1950年代前半には、ハリウッドでスターの1人に数えられるようになります。しかし、彼女に与えられるのは、セクシーで可愛らしい型にはまった役ばかりでした。

1953年、女優として自信を持ち始めた頃のマリリンモンロー

型にはまるのを嫌い、女優としての成長を望んだマリリンは自らのプロダクションを設立し、演技の勉強も重ね、新たな境地を切り開いていきます。1959年にはゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞していますから、マリリンの努力は着実に実を結びました。

ですが、度重なる結婚と離婚、さらに不倫や仕事への深すぎる思いなどがマリリンを追い詰めることになりました。3度目の結婚をした1950年代の後半には、彼女は度々入院・治療が必要な状態になったのです。

3度目の結婚に終止符を打った後の1962年、ロサンゼルスのブレントウッドにある自宅でマリリンモンローが亡くなっているのが、メイドによって発見されました。睡眠薬の大量摂取による自殺であると報道されましたが、今でもなぜ彼女が亡くなったのかは謎に包まれています。

複雑な生い立ちもあり憂鬱気味な性格だった?

1940年頃のマリリン・屈託のない笑顔を見せているが…

マリリンモンローの性格としては、憂うつ、不安になりやすかったことがよく知られています。それが私生活での度重なる結婚や恋愛トラブルとなって現れていたようです。

これにはマリリンの複雑な生い立ちが関係しています。彼女は幼少期のほとんどを孤児院や里親の家庭で過ごし、そこでネグレクトや性的虐待の被害を受けました。幼いときにきちんと愛された経験がないために、自分を父親のように包んでくれる男性を求め、恋愛を繰り返したのだと思われます。

また、マリリンには女優として自分が人の目にどのように映るのかを冷静に判断し、ファッションや仕草を変えることができました。素晴らしい能力ですが、これにも彼女の生い立ちが関係しています。

マリリンは大人の目にどのように自分が映るのか、そしてどう映れば自分が安全に暮らせるのかを考えなくてはならなかったのです。

夫はだれ?マリリンモンローの恋愛事情

2番目の夫・ジョー・ディマジオとともに

マリリンは生涯で3回結婚をしています。マリリンが最初に結婚したのは16歳のときです。相手は母の友人が勧めるジム・ドハティという青年でした。普通なら自由な恋愛を楽しむ年齢でしたが、マリリンには結婚して早く孤児院の生活から抜け出したいという思いがあったようです。

結局、マリリンが女優活動をすることに理解を示さなかったジム・ドハティとは離婚してしまいます。その後トップスターとなった1954年にプロ野球選手だったジョー・ディマジオと2度目の結婚をします。このときに新婚旅行を兼ねて来日したことは広く知られています。

2度目の結婚もわずか9カ月で終わりを迎え、その後は劇作家のアーサー・ミラーと結婚しますが、やはりマリリンの精神は安定することがありませんでした。この結婚中にはパーソナリティ障害と診断され、流産も経験しています。

ミラーとの結婚生活も5年ほどで終わりとなり、離婚後には大統領となったジョン・F・ケネディ(一時は弟のロバート・ケネディとも関係があったと言われています)と不倫関係にあったことが明らかになっています。これが彼女にとっての最後の恋愛になったようです。

マリリンモンローの死因は自殺?それとも他殺?

この自宅で遺体が発見された

1962年の8月5日、ロサンゼルスのブレントウッドの自宅でマリリンが亡くなっているのが発見されました。寝室で全裸の状態だったそうです。

死因が睡眠薬の大量摂取による中毒だったため、当初は自殺と言われていました。映画の主役を降板させられたことを悲観したのが原因だとも噂されましたが、亡くなった時には新たにミュージカルの主役が決定していました。自殺をするほど悲観する理由がマリリンにはなかったわけです。

しかも遺体が発見された部屋には3つの不審な点が残っていました。

  1. 睡眠薬を服用するために使ったはずのコップが消えていた
  2. マリリンの遺体は受話器を握っていたのに、死亡時刻の通話記録が残っていなかった
  3. マリリンの赤い手帳が部屋から消えていた

このため、現在でもマリリンの死因については他殺、それも暗殺であるという説が根強く残っています。

女性にも愛されたファッション

今は女性でも、デニムのない生活は考えられない

マリリンの生き方に対する考え方はとても自由で、新しいものでした。それはファッションに対しても同じで、独自に新しいものを取り入れていました。その代表的な存在がデニムです。

1950年代に初めてリーバイスは女性用のデニムを販売しました。それが「701モデル」です。ストレートなシルエットとハイウエストが特徴で、男性の労働着の印象が強かったデニムのイメージを一新するものでした。

女性らしさの代表であるマリリンの魅力をデニムが一層引き立てたために、女性たちの間ではデニムの人気が一気に高まりました。

また、ハイヒールと同じくらいに愛用したのがケッズのスニーカーでした。中でもチャンピオンモデルがお気に入りだったそうです。今では女性たちにとって当たり前のファッションである、デニムとスニーカーの組み合わせは、マリリンのおかげで常識となったのです。

現在生きている女性のすべてが気付かぬうちにマリリンモンローの影響を受けているのかもしれません。

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