マリリンモンローとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因、功績についても紹介】

マリリンモンローの年表

1926年 – 0歳「マリリンモンロー誕生」

日本の戸籍に匹敵するアメリカの出生証明書

マリリンの実の父親は誰?

マリリンモンローの出生証明書には、父はエドワード・モーテンソン、母はグラティス・モンロー、そしてマリリンの本名、ノーマ・ジーン・モーテンソンが記載されています。しかし、出生後それほど経たないうちに母はマリリンの名字をモーテンソンからベイカーへと変えてしまいます。

アメリカでは現在でも結婚で名字が変わるときに、選択肢が日本よりも多く、夫婦に関係ないまったく新しい名字を名乗ることが可能です。
実は実際の父親はエドワードではないとも言われています。後に実の父親かもしれないチャールズ・スタンリー・ギフォードという男性にマリリンが電話をかけたことがありましたが、会うことは拒絶されたといいます。

母の親友が保護者になったけれど

母のグラティスは大手映画製作会社でフィルムカッターの仕事(撮影したフィルムを編集する仕事)をしていました。映画好きだった彼女は、当時の女優ノーマ・タルマッジにあやかって娘の名前をつけたのです。

しかし、精神の病を患ったために親友のグレース・マッキーがマリリンの保護者になりました。グレースが1935年に結婚したため、マリリンは孤児院に送られ、辛い幼少期を過ごすことになりました。

1945年 – 19歳「モデルとしての写真が初めて掲載される」

孤児院よりは結婚がマシだったのかもしれない

早すぎる結婚の意味

第2次世界大戦中の1942年、高校を中退したマリリンは16歳で結婚します。相手は母の親友グレースの叔母、アナ・ロウアーの勧めるジム・ドハティという青年でした。彼は飛行機の整備工として働いていましたが、海軍に徴兵されて輸送船団に乗り込むことになりました。

家に一人取り残されたマリリンは航空機部品工場に就職し、自分の力で生活を始めます。しかし、この就職中にマリリンはモデルとしてデビュー、女優としての道を歩み始めるのです。この結婚がなければ、マリリンは就職することもなく、人生は違ったものになっていたかもしれません。

マリリンを見出したのは陸軍の報道部員

夢に向かって進み始めた頃の
マリリンモンロー・19歳

マリリンが19歳の誕生日を迎えて間もなくの頃、陸軍から派遣されていた報道部員により1枚の写真が撮られました。そのマリリンの写真が陸軍の機関紙に掲載されたことで、マリリンは工場を辞めてモデルとして活動をするようになります。

そして翌年には映画会社、20世紀フォックスのスクリーンテストに合格、女優マリリンモンローが誕生するのです。

1953年 – 27歳「トップスターとなったマリリン」

今見ても衣装がまったく古臭くない!

初めての主演映画は?

1947年に初めての映画出演をしますが、端役だった上にパッとせず、契約を打ち切られてしまいます。それにもめげず、移籍をして女優を続けた結果、1953年に「ナイアガラ」で主役の座を射止めます。役柄は夫を殺そうとする悪女でしたが、それよりも人の目を惹いたのが、腰を振って歩く独特の歩き方でした。

高いハイヒールを履くことで不安定になり、腰を振る歩き方になるのですが、マリリンはわざと片方の靴のヒールを2cmほど削り、より不安定にして女性的な印象の歩き方を作り出しました。これがモンロー・ウォークと呼ばれ、今でも人々の心に強い印象を残しています。

その容姿だけでなく、自らを完璧に演出できる能力があったからこそ、マリリンはトップスターになれたのです。

トップスターのさらに上を行こうとしたマリリン

人気の出たマリリンのイメージは映画会社によって大切に守られました。その結果マリリンに回ってくる役柄は常に同じようなものになってしまいました。そのことに対してマリリンは不満を感じ、1954年には一時休業した程でした。

「七年目の浮気」の大ヒットにもかかわらず、映画会社の態度は変わらず、業を煮やしたマリリンは自らのプロダクションを設立し、スターの身でありながら演技の勉強もしました。

結果、マリリンはゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞、批評家も絶賛する演技派女優へと成長します。映画会社の態度も変わり、マリリンは正当な評価と報酬を受け取ることができるようになりました。マリリンの行動は現在の働く女性の立場にも大きな影響を与えたと言えるでしょう。

1954年 – 28歳「ジョー・ディマジオと2度目の結婚」

知らない人がいないほどのスター選手だった

貧しい移民の夫婦の間に9人兄妹の4男として生まれたのがジョーでした。この兄弟のうち3人がメジャーリーガーになったといいますから、まさにアメリカンドリームを体現した家族だったわけです。

彼が野球選手として活動したのは約15年ですが、その間には56試合連続安打を達成するなど、輝かしい記録を打ち立てました。現役引退後には日本の球団で臨時コーチを務めるなど、日本とも縁の深い人物です。

しかし、新婚旅行のときには、自分そっちのけで群衆がマリリンに殺到してしまいました。この事実が彼のプライドを傷付け、マリリンとの関係を悪化させたのではないかと考えられています。

1955年 – 29歳 「ジョー・ディマジオと離婚、演技派への転向を図る」

1981年のディマジオ(右)・マリリンの死後37年間彼は生きた

離婚すらも前向きに生かしたマリリン

1955年、ジョーとマリリンは離婚してしまいます。わずか9カ月の結婚生活でした。

日本への新婚旅行中、ディマジオが打撃指導をしている球場にマリリンが現れて、ファンが殺到したことがありました。ディマジオは激しくこれを叱責したために、2人の関係に亀裂が入ったとも言われています。

もともとスター選手だったジョーは、自分そっちのけで人々がマリリンに殺到することにプライドが傷付けられていたと言いますから、ちょっとしたことが2人の関係の命取りになったのかもしれません。

しかし、マリリンはこの機会を自分のステップアップに上手く利用したようです。ニューヨークの俳優養成所・アクターズ・スタジオで演技の勉強をするのです。

アクターズ・スタジオ

アクターズ・スタジオはリー・ストラスバーグがニューヨークで主催した俳優養成所です。出身者にはアルパチーノやダスティン・ホフマンなどの映画スターが名前を連ねています。

アクターズ・スタジオで学ばれていたのがメソッド演技法です。これは役柄の内面に注目して、その感情を自分でも体験することで、演技がより自然になるという理論です。

しかしメソッド演技法では、役作りのために自分の内面を掘り下げる必要があります。このためトラウマとなっている事実を掘り起こしてしまい、その後の人生に大きな影響が出てしまう俳優が多くいることも見逃せません。

マリリンが情緒不安定になった原因の1つは、メソッド演技法だったのかもしれません。

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