「ベトナム戦争は世界にどんな影響を与えたの?」
「映画の題材にもなっているけど、どんな戦争だったの?」
日本でも大きく取り上げられることが多いベトナム戦争。歴史の教科書にも載っている大きな戦争ですが、あまり詳しくは説明されていません。
第二次世界大戦後に起きた中でも特に有名な戦争ですが、実はその後の世界の情勢的にも、人権問題的にも重要な意味を果たしているのです。
ではベトナム戦争とはなぜ起き、どのような経緯でどんな結末を迎えたのでしょうか。この記事ではベトナム戦争の流れと結末、特徴や世界に影響を与えた事件・写真について詳しく説明していきます。よりベトナム戦争について深く知ることができる映画も最後にご紹介します。どうぞ最後までお付き合いください。
ベトナム戦争とは
ベトナム戦争は、ベトナムにとっての独立と東西冷戦の代理戦争でした。
ベトナム戦争にはいくつかの顔があり、いずれもこの戦争を語る上では欠かせないものです。戦場となったベトナムにも、現地で戦ったアメリカとソビエト・中国にも、そして直接は介入していない日本にとっても重要な役割を果たしています。
ではどのような戦争だったのでしょうか。ベトナム戦争が持つ性質のうち特に知っておきたい側面から説明していきます。
ベトナム独立のための戦争
戦場となったベトナムにとっては、自国の独立を目的としていました。
インドシナ半島の独立から起きたインドシナ戦争後、それまでの宗主国フランスが撤退し、ベトナムは晴れて独立したかのように見えました。しかし、インドシナ戦争後半で介入してきたアメリカの思惑によりその夢に待ったがかかります。
南北に分裂させられたベトナムは、アメリカとの戦争を決意します。アメリカの事実上の傀儡国家である南ベトナムを倒し、晴れてベトナムとしての独立を達成するために、ホー・チ・ミン率いる北ベトナムは戦ったのです。
主権回復を待ち望んでいたベトナムにとって南北関係なく「ベトナム」として独立することに意味があっただけにアメリカの介入は許せなかったのです。こうしてベトナムは、フランスとの戦争から間もなくして事実上のアメリカとの戦争を決意したのです。
東西冷戦の代理戦争
ベトナム戦争には東西冷戦における代理戦争の性格もありました。第二次世界大戦後の世界は、資本主義と社会主義による覇権争いの様相を呈していました。世にいう「東西冷戦」の状態です。
先に起きていた朝鮮戦争と同じく、資本主義の中心であるアメリカ率いる南ベトナムと、社会主義のソビエトを援助を受ける北ベトナムによる代理戦争でした。直接それぞれの国が戦わずに別の地域で変わりに戦争させることです。
各国の立場はそれぞれ違いました。ここでは大きく4カ国3つの立場から診ていきます。
アメリカの立場
資本主義経済の中心であるアメリカは、戦後に拡大する可能性を秘めていた社会主義に対して「ドミノ理論」と呼ばれる理論の元で警戒感を強めていました。
ドミノ理論とは、資本主義国家化が社会主義に代われば、次々と社会主義の国家が生まれていき、最後にはアメリカ自身が倒れてしまうと考えられている理論です。当時のアメリカは、世界の中心でありたいがために、このドミノ理論に基づく社会主義拡大の阻止に躍起になっていました。
アメリカにしてみれば十分な大義名分があったベトナム戦争。それだけ社会主義の進出と拡大はアメリカにとっては脅威だったのです。
ソビエト・中国の立場
一方の社会主義の雄・ソビエトは、当初中国の動きに任せていました。北ベトナム政府を樹立したホー・チ・ミンは、中国共産党の力を借りてベトナム共産党主体の政府を樹立。社会主義国家としてスタートを切りました。
ソビエトが本格的に介入したのはベトナム戦争が始まる直前の話です。
それまで情勢を俯瞰していたソビエトは、ホー、毛沢東、そしてスターリンの三者会談の結果、軍事派遣を開始しました。ベトナム戦争にはソビエト・中国の社会主義の大国が関わるようになったのです。
背景には当然のことながら、アメリカの優勢があったのでした。自分たちが世界の中心になることを画策していたソビエトにとっても負けられない戦いだったのです。
日本の立場
日本はベトナム戦争には直接関与はしませんでした。日本の立場はあくまでも「アメリカの援助」という形にとどまっています。
日米安保条約に基づいて、佐藤栄作は沖縄や横須賀の基地をアメリカ軍の駐留基地として開放。
アメリカ軍のベトナム戦争への参加を支援していました。国内でも、アメリカの支持する南ベトナムの独立を支援する民間運動が加熱してしたのです。
余談ですが、ベトナム戦争後、日本には多くのボートピープルと呼ばれる難民が押し寄せます。この減少は2015年まで続き、ベトナムが経済的復興を成し遂げるまで続くことになりました。
しかし彼らがやってきた当初、日本国内では社会主義反対派が多かったことは言うまでもありません。
戦争の勝敗は?
ベトナム戦争において、アメリカの明確な敗北宣言はありませんでした。しかし、勝利宣言もなく集結したため、事実上アメリカが敗戦した戦争でもあります。
東西冷戦の代理戦争としての性格と、ベトナム対アメリカの独立戦争としての性格を持ち合わせていたベトナム戦争。1973年1月29日、アメリカ大統領リチャード・ニクソンはベトナム戦争の終結を宣言し、アメリカ軍が撤退しました。
アメリカが敗退した戦争は、あとにも先にもベトナム戦争だけです。この敗戦はアメリカにとっては大打撃であり、ニクソン退陣後も彼はその責任を追求されました。
しかし、ベトナム国内の戦争はその後2年間続いたのです。結局、北ベトナムが勝利を収め、ベトナムが統一されたのはジュネーブ条約が発行された1976年4月まで待たなければなりませんでした。
ベトナム戦争の原因
ベトナム戦争は第1次インドシナ戦争の延長として捉えられており、この戦争も第2次インドシナ戦争と呼ばれることもあります。
ベトナム戦争の主たる原因は独立の可否にありました。第1次インドシナ戦争終結とともに発行されたジュネーブ協定により、ベトナム民主共和国が成立し、名実ともども独立を果たすことが決定した矢先。途中介入してきたアメリカとそれに近い南ベトナムによって阻止されたのです。
アメリカは調査団と銘打った軍隊を南ベトナムに派遣。同時に南ベトナムの首相に、アメリカと友好関係が深いゴ・ディン・ジエムを選び、傀儡政権を誕生させました。
これに対し北ベトナムのホー・チ・ミンは、ジエムが反対していた南北統一選挙の実施を主張。南ベトナムを主体とした資本主義国家を作りたかったアメリカとの溝が深まり、戦争へと発展したのです。
ベトナム戦争の特徴
ベトナム戦争には、他の戦争にはない特徴がいくつかあります。その最たるものに、アメリカの敗戦、枯葉剤による奇形児の誕生、韓国軍の大虐殺や難民問題などがあり、ものによっては現在も続いているものも。
ここではそれぞれの特徴的な問題を取り上げ、詳しく説明していきます。
勝てなかったアメリカ
ベトナム戦争は、未だかつてないアメリカの敗戦を決定づけた戦争でした。それまで、建国から今日至るまでの度重なる対外戦争に勝利し続けてきたアメリカにとってこの敗戦は屈辱と言っても過言ではなかったでしょう。
敗戦の原因にはいくつかの原因が挙げられますが、その最たるものに北ベトナムによるゲリラ戦法があります。熱帯雨林のジャングルを主戦場としたベトナム戦争に、ただでさえ蒸し暑い環境も苦しかったアメリカ兵は苦戦を強いられました。さらに歩き慣れない密林の中で突如として攻撃を仕掛けてくるベトナム兵に手も足も出なかったのです。
アメリカは爆撃機や、後述する枯葉剤を使用してベトナム兵の隠れ家である密林を減らそうと腐心しました。しかし結果もむなしくベトナム戦争には敗戦。死者58,718人、行方不明者約2,000人、負傷者を加えた人的被害は約30万人ともいわれるおびただしい数字の損失を出しただけで得るものはなにもありませんでした。
枯葉剤と奇形児
アメリカ軍が使用した兵器の中に「枯葉剤」と呼ばれるものがあります。その名のとおり植物を枯らすための有害物質を含んだもので、ジャングルに身をひそめるベトナム兵の隠れ蓑を減らす役割で投入されました。主成分はダイオキシン系化学物質で、容器の色によって「ブルー剤」「オレンジ剤」などの名があります。
この枯葉剤が原因で、密林の一部が減ったのはもちろんのこと、それを被ったベトナム人にも被害が出始めたのは1969年のことでした。生まれつき指がないまま生まれてきたり、脳がない「無脳症」で誕生したりした子どもの存在が確認されたのです。中には双子で身体の部分がくっついてしまったケースも。代表的な人物に「ベトちゃんドクちゃん」の愛称で知られるグエン・ベト、グエン・ドク兄弟がいます。
また、散布した側のアメリカ軍所属の兵も健康被害を訴え、1984年に製造会社を相手に集団提訴。加えて現在もベトナム各地で地下に眠る枯葉剤の除染作業が続くなど、戦争から半世紀近くたった現在もその爪痕を深く深く残しています。
韓国軍と虐殺問題
ベトナム戦争にはアメリカ側に加担する国、ソビエト側に加担する国の一部が軍隊を派遣し戦闘に参加していました。彼らは時に大虐殺と呼ばれるような痛ましい虐殺事件を起こしますが、このベトナム戦争でも韓国軍による大虐殺があったのです。
韓国軍は1965~1968年までの約3年間、各地でベトナム人女性を中心とした強姦・虐殺を繰り返します。中には略奪も行われたといわれる一連の虐殺の背景には、先に休戦となった朝鮮戦争でのアメリカ軍から受けた援助への「お礼」の意味があったと、韓国政府が記者会見で発表しました。
しかしこの禍根は決して消えることはありませんでした。2015年に朴槿恵大統領(当時)がアメリカを訪問した際、ウォールストリートジャーナル紙が当時韓国軍の被害に遭った女性が韓国政府に賠償と謝罪を求めている主旨の広告を掲載。これより前の2001年に金大中大統領がベトナム訪問の際に謝罪と賠償を約束したものの賠償は不十分で不満の声が上がり続けていたのです。
なお、韓国政府は2021年現在まで「証拠不十分」としてそれらの賠償と謝罪に関しては無視し続けています。