アル・カポネとは、禁酒法時代のシカゴを拠点に活動を行った、アメリカを代表するギャングです。
一般的に”目立たない場所に潜む”イメージが強いギャングの中でも、あえて高級ホテルを根城に犯罪組織を運営し、その恐怖とカリスマ性によってシカゴの街を実質的に支配することに至った、”ギャング”というイメージの雛型となった人物でもあります。
しかし悪名の一方で、彼はいわゆる”仁義”や”筋”を通す侠客のような性質も持ち合わせ、そうした側面から、現在に至るまで創作の題材として親しまれてもいるという、かなり我々からすると身近に存在する人物でもあるのです。
この記事では、そんなギャングの雛型であるアル・カポネについて、功罪の両面や歴史的な事実から人物像を紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
アル・カポネとはどんな人物か
名前 | アルフォンス・ガブリエル・カポネ |
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通称 | アル・カポネ、 スカーフェイス、暗黒街の顔役 |
職業 | ギャング、家具販売業者 |
誕生日 | 1899年1月17日 |
没日 | 1947年1月25日(享年48歳) |
生地 | アメリカ合衆国、ニューヨーク州 ニューヨークブルックリン区 |
没地 | アメリカ合衆国、フロリダ州 マイアミビーチパームアイランド島 |
配偶者 | メアリー・ジョゼフィン・カフリン |
子供 | アルバート・フランシス・カポネ |
埋葬場所 | アメリカ合衆国 イリノイ州 マウント・カーメル ・カトリック墓地 |
アル・カポネの生涯をハイライト
アル・カポネはイタリア系アメリカ人の四男としてニューヨークに生まれました。両親は理髪師と裁縫師という一般的よりもやや貧乏な家庭でした。しかしそんな中でも少年期のアルは成績優秀な優等生として成長していたといいます。
しかし7年生への進級時に、担任の女教師と殴り合いのけんかとなったことから、彼は学校に行かずに暗黒街に出入りする生活を送ることになります。そんな生活の中でアルは銃の扱いを覚え、イタリアン・マフィアの幹部、ジョニー・トーリオと知り合ったことで、本格的に裏社会に入っていくこととなりました。
裏社会に入ったアルは、最初はバーテンダーや用心棒などで生計を立てていきますが、後にトーリオとともにシカゴに移ったことで出世。賭博場や売春宿のオーナーとして名を上げ、20代前半で2万5千ドルの年収を稼ぐ実業家となりました。
そして26歳の頃、トーリオの引退に伴って縄張りを譲られたアルは、敵対者の抹殺や酒の密売で勢力を拡大。「シカゴの実質的な市長」と呼ばれるまでに至ります。アルはこの頃に数度逮捕されていますが、これらは様々な対立を避けるための自作自演であり、暗黒街の顔役としての立場は非常に安泰となっていたようです。
しかし良くも悪くも目立ち過ぎたアルは、当然ながら公権力には睨まれることとなります。そのため1931年、アルは表向きの顔である実業家として、脱税の容疑で裁判にかけられることになり、有罪判決を受けることとなりました。
こうして刑務所に入れられたアルは、当初こそVIP待遇を受けていましたが、アトランタ刑務所に移送されると状況は一変。他の囚人たちからはいじめの標的となり、1年後にアルカトラズ刑務所に移送されてからも、その待遇は変わらなかったと記録されています。
そして1936年ごろから、アルは次第に体調を崩していき、1938年に梅毒との診断と治療を受けることになります。しかし既に進行が進んでいたため効果はなく、アルは結局暗黒街の顔役に戻ることなく、1947年1月25日に、脳卒中に伴う肺炎でこの世を去ることとなりました。
ただの悪人ではない人物像
”ギャングの代名詞”としてのイメージや、敵対者を容赦なく抹殺し、構想に機関銃を持ち出すというエピソードなど、恐ろしいイメージが付きまとうアル・カポネ。しかしその一方で、彼は仁義や義理人情を通す人物であったことも記録されています。
例えば、妻と結婚した際には一度暗黒街との繋がりを絶って簿記係として就職。その生活は長くは続かなかったものの、退職の際に事務所の経営者であったピーターから選別を貰ったことを恩に感じ、後年にピーターと再会した際に宴会を開いたというエピソードが、特にアルの筋が通った一面を示すエピソードだと言えるでしょう。
また、暗黒街の顔役としてのし上がって以降は、度々貧窮者への炊き出しを行うなどの慈善事業を展開していたことも記録されています。
と、このようなエピソードだけ見ると「善人」のようにも見えますが、その元手となったお金が非合法的な手段で稼いだお金であることには変わりないため、その点についてアル・カポネを評価するには、非常に多角的な視点が必要だと言えそうです。
アル・カポネと禁酒法
アル・カポネが裏社会で成りあがることができた理由は、もちろん彼自身のカリスマ性や実力もありましたが、やはり一番の要因は”禁酒法”にあったと言っても良いでしょう。
薬用アルコールの摂取による中毒症状など、アメリカ各地で社会問題を引き起こした禁酒法ですが、とりわけ密造酒の問題は非常に根深く、密造酒を通じてアル・カポネを初めとしたギャング組織は、多大な利益を上げることとなりました。
また、禁酒法の制定が市民感情を公権力への反発へと向かわせたことで、アル・カポネのようなギャングが活動しやすくなった側面も否定できません。
カリスマ的なギャングとして現代でも語り継がれるアル・カポネですが、その活動の裏には状況的な幸運が味方していたことも、留意していく必要があるでしょう。