アル・カポネとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や禁酒法との関係も紹介】

アル・カポネの生涯年表

1899年 – 0歳「イタリア系アメリカ人の子として誕生」

幼少のアル・カポネとその母の写真。アルは終生、母を尊敬し続けたという。

アル・カポネの誕生

この年の1月、アル・カポネはイタリア系アメリカ人夫婦の子として生を受けました。九人兄弟の四男としての誕生であり、生活そのものは豊かではない家庭での誕生でした。

しかしその一方で、親子仲や兄弟仲は良かったことが記録されており、裏社会に出入りするようになった後も、アル・カポネはそこで得た金銭を母に渡すような子供であったことがわかっています。

少年期のアル・カポネ

少年期のアル・カポネは、非常に成績優秀な優等生として評価を受けており、周囲から将来を嘱望されるような人物だったと言われています。

しかし徐々に学校をサボるようになり、7年生に進級する際に担任の教師に注意されたことで激昂。彼は二度と学校に行くことはなく、暗黒街に出入りを始めるようになってしまいました。

1900年代後半~1910年代前半 – 10代前半~中盤「暗黒街の一員となる」

ジョニー・トーリオとの出会いが、アル・カポネの人生を大きく変えることになる

裏社会のアル・カポネ少年

学校に行かずに暗黒街に出入りするようになったアル・カポネは、やがてイタリア系マフィアの幹部であるジョニー・トーリオという人物と親しくなることとなります。

ジョニーはギャングにしては珍しい、酒も煙草も売春もやらない紳士的な人物であり、アル・カポネはそんな彼に暗黒街での生き方や銃の扱いを教わっていくことになりました。

フランキー・イェールとの出会い

フランキー・イェールに気に入られたことで、彼は本格的に裏社会の人間となった。

ジョニー・トーリオに気に入られたアル・カポネは、ジョニーの知り合いであるフランキー・イェールと出会い、非常に気に入られることになりました。

この時期のアルはイェールが経営する”ハーヴァード・イン”という店で、皿洗いやバーテンダー、あるいは用心棒として働き、裏社会での振る舞いを学んでいきます。彼の通称である”スカーフェイス”の由来となる顔の傷も、この頃につけられたものです。

こうして真面目に下働きをこなしたアルは、数年後には暗黒街の一員として認められるに至りました。しかし当時のギャングの慣習上、シチリア出身でなかったアルはマフィアの本流に加わることはできず、あくまでも下働きの立ち位置が強い暗黒街入りだったようです。

1918年 – 18歳「妻である”メエ”との出会い」

生涯の妻であるメエ

父となり、夫となる

この年、アル・カポネは生涯の妻となるメアリー、通称”メエ”と出会うことになります。

アイルランド系のメアリーとイタリア系のアルは、当時の価値観からすると珍しいカップルでしたが、この年の12月にメアリーが、一人息子となるソニーを出産。そしてその後、二人は結婚することになりました。

これによりアルは一時、裏社会との付き合いをやめて建設事務所の簿記係として就職。真面目な好青年として職務に励み、周囲からの評判も上々だったことが記録されています。

1920年 – 21歳「シカゴへ向かう」

シカゴに出て暗黒街の一員となり、彼はみるみるうちに勢力を拡大していった。

シカゴへの出仕

この頃、ギャング間の抗争に伴う傷害や殺人などの罪で起訴されそうだったアル・カポネは、この年にジョニー・トーリオからシカゴへの呼び出しを受けます。

起訴から逃れるためにもその呼び出しは丁度良かったため、アルはシカゴに向かうことをほとんど即決。友人からの餞別を受け取り、彼はシカゴへ活動拠点を移すことになりました。

また、この時働いていた建設事務所の経営者であるピーター・アイエロも、彼に対する餞別を送っており、彼はこの恩を生涯忘れることはありませんでした。

シカゴでの大出世

シカゴでのアルは、当初は売春宿の客引きなどを行っていましたが、この頃に彼の才能は一気に開花することとなります。

トーリオの手腕を見習ったアルは、一年も経たないうちに犯罪帝国で大出世。売春宿や賭博場を多数経営する裏社会の実業家として、2万5千ドル近い年収を稼ぐほどの人物になりました。

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