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アル・カポネとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や禁酒法との関係も紹介】

アル・カポネにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「”ギャング”としては捕まっていないアル・カポネ」

ギャングとしてのイメージが強いアル・カポネだが、実はギャングとしては捕まっていない?

暗黒街の顔役として、生涯のほぼ全てを裏社会で過ごしたアル・カポネ。その晩年は収監されている時間が非常に長く、刑務所内では他の囚人から冷遇されていましたが、実はアル・カポネは”ギャング”として罪に問われて収監されたわけではありません。

というのも、彼の逮捕のために動いた捜査官のチームは、最終的には彼の殺人への関与やアルコール類の密造に関する決定的な証拠を上げることができなかったのです。そのため最終的に彼らは、アルのことを「脱税」の容疑で起訴。彼はこれにより有罪判決を受けて収監されることになっています。

つまり、アル・カポネはギャングとしてというよりは、表の顔である実業家として逮捕されたとも言えます。そのような点からも彼の「暗黒街の顔役」とまで謳われた手腕を垣間見ることができるのではないでしょうか。

都市伝説・武勇伝2「実はかなりのインテリだった?」

当時のギャングは粗暴な人間が多かったようだが、アル・カポネはそれらとは一線を画す存在だった。

一般にギャングと言えば、「粗野で粗暴で暴力的」「あまり頭が良くない」といったイメージで見られがちですが、アル・カポネはそのようなイメージとは異なり、かなりインテリな人物でもありました。

そのような側面は、彼の表向きの顔である実業家の側面からも確かに窺えますが、なにより妻との結婚に際して、建設事務所の簿記係に就職していることも、彼の地頭の良さを示すエピソードだと言えるでしょう。

また、アルが簿記係として働いていた頃に近所で働いていた人物は「彼は勤勉で頭の良い好青年だった」という証言を残しています。他にも製本工場やボーリング場などで働いていたことも記録され、そのどこでもアルは「頭のいい好青年」と評価されていたようです。

後に「暗黒街の顔役」として名をはせるアル・カポネですが、それは彼の暴力的な側面だけでなく、彼自身が非常に頭のいい人物だったからこそ、辿り着けた立場だったのかもしれません。

アル・カポネの生涯年表

1899年 – 0歳「イタリア系アメリカ人の子として誕生」

幼少のアル・カポネとその母の写真。アルは終生、母を尊敬し続けたという。

アル・カポネの誕生

この年の1月、アル・カポネはイタリア系アメリカ人夫婦の子として生を受けました。九人兄弟の四男としての誕生であり、生活そのものは豊かではない家庭での誕生でした。

しかしその一方で、親子仲や兄弟仲は良かったことが記録されており、裏社会に出入りするようになった後も、アル・カポネはそこで得た金銭を母に渡すような子供であったことがわかっています。

少年期のアル・カポネ

少年期のアル・カポネは、非常に成績優秀な優等生として評価を受けており、周囲から将来を嘱望されるような人物だったと言われています。

しかし徐々に学校をサボるようになり、7年生に進級する際に担任の教師に注意されたことで激昂。彼は二度と学校に行くことはなく、暗黒街に出入りを始めるようになってしまいました。

1900年代後半~1910年代前半 – 10代前半~中盤「暗黒街の一員となる」

ジョニー・トーリオとの出会いが、アル・カポネの人生を大きく変えることになる

裏社会のアル・カポネ少年

学校に行かずに暗黒街に出入りするようになったアル・カポネは、やがてイタリア系マフィアの幹部であるジョニー・トーリオという人物と親しくなることとなります。

ジョニーはギャングにしては珍しい、酒も煙草も売春もやらない紳士的な人物であり、アル・カポネはそんな彼に暗黒街での生き方や銃の扱いを教わっていくことになりました。

フランキー・イェールとの出会い

フランキー・イェールに気に入られたことで、彼は本格的に裏社会の人間となった。

ジョニー・トーリオに気に入られたアル・カポネは、ジョニーの知り合いであるフランキー・イェールと出会い、非常に気に入られることになりました。

この時期のアルはイェールが経営する”ハーヴァード・イン”という店で、皿洗いやバーテンダー、あるいは用心棒として働き、裏社会での振る舞いを学んでいきます。彼の通称である”スカーフェイス”の由来となる顔の傷も、この頃につけられたものです。

こうして真面目に下働きをこなしたアルは、数年後には暗黒街の一員として認められるに至りました。しかし当時のギャングの慣習上、シチリア出身でなかったアルはマフィアの本流に加わることはできず、あくまでも下働きの立ち位置が強い暗黒街入りだったようです。

1918年 – 18歳「妻である”メエ”との出会い」

生涯の妻であるメエ

父となり、夫となる

この年、アル・カポネは生涯の妻となるメアリー、通称”メエ”と出会うことになります。

アイルランド系のメアリーとイタリア系のアルは、当時の価値観からすると珍しいカップルでしたが、この年の12月にメアリーが、一人息子となるソニーを出産。そしてその後、二人は結婚することになりました。

これによりアルは一時、裏社会との付き合いをやめて建設事務所の簿記係として就職。真面目な好青年として職務に励み、周囲からの評判も上々だったことが記録されています。

1920年 – 21歳「シカゴへ向かう」

シカゴに出て暗黒街の一員となり、彼はみるみるうちに勢力を拡大していった。

シカゴへの出仕

この頃、ギャング間の抗争に伴う傷害や殺人などの罪で起訴されそうだったアル・カポネは、この年にジョニー・トーリオからシカゴへの呼び出しを受けます。

起訴から逃れるためにもその呼び出しは丁度良かったため、アルはシカゴに向かうことをほとんど即決。友人からの餞別を受け取り、彼はシカゴへ活動拠点を移すことになりました。

また、この時働いていた建設事務所の経営者であるピーター・アイエロも、彼に対する餞別を送っており、彼はこの恩を生涯忘れることはありませんでした。

シカゴでの大出世

シカゴでのアルは、当初は売春宿の客引きなどを行っていましたが、この頃に彼の才能は一気に開花することとなります。

トーリオの手腕を見習ったアルは、一年も経たないうちに犯罪帝国で大出世。売春宿や賭博場を多数経営する裏社会の実業家として、2万5千ドル近い年収を稼ぐほどの人物になりました。

1925年 – 26歳「”暗黒街の顔役”となる」

暗黒街の顔役となったアル・カポネは、そのまま自身の勢力を拡大し続けていく。

ジョニー・トーリオの後継者

この年、ジョニー・トーリオが裏社会からの引退を決めると、アルがその地位を継承。これによりシカゴの暗黒街の実質的なトップに立った彼は、これまで以上の手腕を発揮して自身の地位を高めていきます。

酒の密売を主要な収入源としつつ、賭博場や売春宿の経営。更に敵対する組織の買収や抹殺などを行っていったアルは、30歳の頃には年収6200万ドル(現代の貨幣価値で8億3千万ドル)を叩きだす、シカゴの実質的な市長とも呼べる存在となっていきました。

1926年 – 27歳「マクスウィギン事件」

ランシングでの逃亡生活からは、アル・カポネの一風変わった側面を見ることができる。

マクスウィギン事件

4月、カポネ組の構成員がウィリアム・H・マクスウィギンという若い検事を、誤って殺害してしまうという事件が発生。これによりアルは指名手配を受けることになってしまいます。

そのため彼はミシガン州のランシングに身を隠し、その街を苦しめるギャングたちを追い払う代わりに、そこで悠々自適な数か月の逃亡生活を送ることになりました。

ランシングでのアル・カポネは、貧しい世帯や苦学者への援助を行ったり、地域の子供たちを連れてアイスクリームを食べに行ったりと、町の多くの人に慕われる人物として高く評価されていたことがわかっています。

事件の顛末

3カ月のランシングでの生活を終えて、アルはシカゴの裁判所に出頭しますが、結果的に彼が罪に問われることはありませんでした。

実はマクスウィギンは、アイルランド系のギャングとの付き合いや酒場への出入りなどを行う不良人物であり、しかも彼の殺害に対するアルの関与は証拠としてあがらなかったのです。

こうした事実が明らかになっていく中で、シカゴ市民からアルに対する怒りも収まっており、こうして彼は再び、シカゴの暗黒街の顔役として活動を再開することになりました。

1928年 – 29歳「恩師を暗殺する」

恩師のフランキー・イェール

アル・カポネVSフランキー・イェール

この頃、アルとその恩師であるフランキー・イェールの取引がうまくいっておらず、アルはフランキーに対する不信を募らせていました。

そしてフランキーの動向を探らせていた友人が殺害されたことで、アルの不信は確信へ。アルはフランキーの暗殺を計画し、7月に暗殺を成し遂げることとなりました。

しかしこの事件は泥沼化し、夏の終わりにはアルと仲が良かったウニオーネ・シチリオーネ会の快調であるアントニオ・ロンバルドが何者かによって暗殺。そのあとを継いだパスカリーノ・ロロルドも暗殺され、イェールの部下とアルの関係は、こうして断ち切られてしまったのでした。

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