アル・カポネとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や禁酒法との関係も紹介】

1925年 – 26歳「”暗黒街の顔役”となる」

暗黒街の顔役となったアル・カポネは、そのまま自身の勢力を拡大し続けていく。

ジョニー・トーリオの後継者

この年、ジョニー・トーリオが裏社会からの引退を決めると、アルがその地位を継承。これによりシカゴの暗黒街の実質的なトップに立った彼は、これまで以上の手腕を発揮して自身の地位を高めていきます。

酒の密売を主要な収入源としつつ、賭博場や売春宿の経営。更に敵対する組織の買収や抹殺などを行っていったアルは、30歳の頃には年収6200万ドル(現代の貨幣価値で8億3千万ドル)を叩きだす、シカゴの実質的な市長とも呼べる存在となっていきました。

1926年 – 27歳「マクスウィギン事件」

ランシングでの逃亡生活からは、アル・カポネの一風変わった側面を見ることができる。

マクスウィギン事件

4月、カポネ組の構成員がウィリアム・H・マクスウィギンという若い検事を、誤って殺害してしまうという事件が発生。これによりアルは指名手配を受けることになってしまいます。

そのため彼はミシガン州のランシングに身を隠し、その街を苦しめるギャングたちを追い払う代わりに、そこで悠々自適な数か月の逃亡生活を送ることになりました。

ランシングでのアル・カポネは、貧しい世帯や苦学者への援助を行ったり、地域の子供たちを連れてアイスクリームを食べに行ったりと、町の多くの人に慕われる人物として高く評価されていたことがわかっています。

事件の顛末

3カ月のランシングでの生活を終えて、アルはシカゴの裁判所に出頭しますが、結果的に彼が罪に問われることはありませんでした。

実はマクスウィギンは、アイルランド系のギャングとの付き合いや酒場への出入りなどを行う不良人物であり、しかも彼の殺害に対するアルの関与は証拠としてあがらなかったのです。

こうした事実が明らかになっていく中で、シカゴ市民からアルに対する怒りも収まっており、こうして彼は再び、シカゴの暗黒街の顔役として活動を再開することになりました。

1928年 – 29歳「恩師を暗殺する」

恩師のフランキー・イェール

アル・カポネVSフランキー・イェール

この頃、アルとその恩師であるフランキー・イェールの取引がうまくいっておらず、アルはフランキーに対する不信を募らせていました。

そしてフランキーの動向を探らせていた友人が殺害されたことで、アルの不信は確信へ。アルはフランキーの暗殺を計画し、7月に暗殺を成し遂げることとなりました。

しかしこの事件は泥沼化し、夏の終わりにはアルと仲が良かったウニオーネ・シチリオーネ会の快調であるアントニオ・ロンバルドが何者かによって暗殺。そのあとを継いだパスカリーノ・ロロルドも暗殺され、イェールの部下とアルの関係は、こうして断ち切られてしまったのでした。

1929年 – 30歳「聖バレンタインデーの虐殺」

当時の新聞記事。この事件が取り上げられたことで、アル・カポネの牽制は急速に陰っていくこととなる。

聖バレンタインデーの虐殺

シカゴの暗黒街の顔役として有名になったアルは、この頃ノースサイド・ギャングとの熾烈な抗争を繰り広げていました。

そのためアルは、ノースサイド・ギャングを率いるバッグズ・モランに密造酒の取引を持ち掛け、ノースサイド・ギャングの幹部を取引場所に集めたところで暗殺する計画を実行。到着が遅れたモランは九死に一生を得ましたが、これによりノースサイド・ギャングはカポネ組に歯向かえるだけの勢力を失うことになりました。

この暗殺事件は、警察の姿をしたヒットマンに暗殺を実行させ、取引場所に表れたノースサイド・ギャングのメンバーを、マシンガンとショットガンでハチの巣にするという凄惨かつ狡猾な事件として、マスコミに「アル・カポネの犯行」と大々的に取り上げられました。

聖バレンタインデーの虐殺、その余波

マスコミに”聖バレンタインデーの虐殺”が大きく取り上げられたことで、アル・カポネの権勢には陰りが生じ始めることとなります。

市民感情の高まりによって、いままでアルと実質的に癒着していた警察組織が、本腰を上げてアル・カポネの検挙へと乗り出すこととなったのです。

聖バレンタインデーの虐殺に関してこそ検挙を免れたものの、警察や行政の様々な部門がカポネの検挙に乗り出したことで、彼の時代は着々と終わりを迎えようとしていました。

1931年 – 32歳「転落」

禁酒法違反に伴って、アル・カポネの調査に当たったチーム”アンタッチャブル”のリーダー、エリオット・ネス

アル・カポネVS”アンタッチャブル”

市民感情が敵に回ったことから、アル・カポネは貧窮者への炊き出しなどで市民の支持を得ようと画策しますが、これらも失敗。

一方で行政側は、財務長官であるアンドリュー・メロンの号令の元、脱税容疑と禁酒法(ボルステッド法)の違反について、いよいよ本腰を入れてアル・カポネ一味に対する調査を開始しました。この時に禁酒法方面で調査を行ったチームの通称が、映画でも描かれる『アンタッチャブル』となっています。

そして最終的に、アル・カポネは脱税の容疑が認められて告発を受けることに。そしてこの年の10月に、いよいよ裁判が始まることとなりました。

キング・オブ・ギャングの転落

脱税裁判の結果、アル・カポネは11年の懲役と8万ドルの罰金という有罪判決を受けることになりました。カポネはこの宣告を受けた際、顔を引きつらせていたとの記録が残されています。

これは脱税にしては過大な刑だとも言えますが、実はアルは裁判の前に陪審員を買収しようとしていて、それを密告によって阻まれる形となっていました。そのため、その分が刑の内容に加算されたと見られることにも留意が必要です。

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