日中戦争とは?原因や結果、日本がしたことを年表で詳しく紹介

9月 – 第二次国共合作

祝杯を挙げる中国共産党の毛沢東と中国国民党の蒋介石

第二次国共合作とは、1937年から1945年にわたって中国国民党と中国共産党の間で結ばれた、反ファシズムを掲げる抗日民族統一戦線です。この第二次国共合作は、第一次国共内戦の勃発により第一次国共合作が崩壊してからちょうど10年後に成立しました。

この国共再合作は、中国共産党が発表した国共合作宣言について、中国国民党の指導者蒋介石が合意したことで成立。そして、両党は対等な立場として協力関係を結んだのです。

また、国共合作が正式に決定される直前、中華民国は中国共産党の支援をしていたソビエト連邦との間で中ソ不可侵条約を締結しました。その結果、1941年に日本がソビエト連邦と日ソ中立条約を結ぶまでの間、ソビエト連邦は中華民国を支援し続けたのです。

12月 – 南京虐殺事件

南京虐殺事件とは、日本軍が国民政府の首都南京を占領した際に、中国人捕虜や一般市民に対して不法な虐殺、略奪、強姦などを行ったとされる事件です。当時、日本国内では首都である南京を攻略すれば、戦争は終わると考えられていました。

しかし、国民政府と蒋介石は既に重慶へ遷都して徹底抗戦を継続しており、その時点で日中戦争が終わることはありませんでした。そして、日本による暴行や略奪などの残虐行為は翌年まで続いたとされています。

この事件は、日本が国際的な非難を強く受ける大きな原因となりました。そして、戦後に行われた軍事裁判では、事件の責任を負って陸軍大将の松井石根ら関係者複数人が処刑されることになります。しかし、事件に関する主張の不一致点や軍事裁判に対する批判や疑問も多く存在しており、事件の真相について不明な点も多く残されているのです。

戦後に処刑された陸軍大将松井石根

1938年 – 「近衛文麿内閣が国家総動員法を制定」

国家総動員法を報じる新聞記事

1938年、日本の近衛文麿内閣は、国家総動員法を制定します。

この法律が制定された理由は、日中戦争の長期化に伴う戦争の国家総力戦化にありました。国家総力戦とは、戦争遂行のために全ての国力を総動員して戦うという戦争形態です。当時、日中戦争の泥沼化によって日本国内の平時経済に限界がきており、戦時の経済体制が強く求められていました。

最終的に、国家総動員法は戦後に廃止されることになります。その理由は、日本が第二次世界大戦において敗戦国になったことにより、戦時経済体制の必要性が無くなってしまったことにあったのです。

1939年 – 「日本とソビエト連邦によるノモンハン事件」

ソビエト連邦軍と戦う日本兵

1939年、満州国とモンゴル人民共和国の国境付近において、ノモンハン事件が発生しました。ノモンハン事件とは、日本とソビエト連邦の両軍による武力衝突によって起こった事件です。

当時、満州国は事実上日本の支配を受けており、隣接するモンゴル人民共和国はソビエト連邦の支援を受けていました。そのため、日本が日中戦争を有利に進めるためには、ソビエト連邦との衝突は避けられないと考えていたのです。

その結果、大規模な軍事衝突が勃発しましたが、日本軍はソビエト連邦軍の攻勢の前に後退を余儀なくされ、ソビエト連邦に有利な展開で進んでいきました。しかし、最終的に日本とソビエト連邦は停戦協定を締結することになります。

その理由は、同時期にソビエト連邦がナチス・ドイツと共にポーランド侵攻を計画していたことにありました。そして、ソビエト連邦は二方面での戦争状態を避けるために、日本との停戦協定に大幅な譲歩をした形で合意したのです。その後、1941年には日ソ中立条約を締結し、日本は停滞する日中戦争の打開策として、フランス領インドシナへの進出を計画し始めていました。

1941年 – 「太平洋戦争勃発」

日本による真珠湾攻撃で炎上する戦艦ウエストバージニア

1941年、日本はイギリス領マレー半島への上陸とアメリカ領ハワイの真珠湾への攻撃を行い、両国に宣戦布告しました。この太平洋戦争は、日中戦争を含めて大東亜戦争とも呼ばれます。

開戦前、南進論を展開する日本軍はフランス領インドシナへの進出し、カンボジアやラオスにも軍を展開しました。しかし、事前に日本軍によるインドシナ半島への進駐に反対していたアメリカとイギリスは、日本の軍事行動に対して強く反発。その結果、日本のアメリカ、イギリスとの関係は一気に悪化し、太平洋戦争勃発に至ったのです。

また、太平洋戦争が始まった後、蒋介石率いる中華民国政府は日本に対して宣戦布告を行いました。その結果、中華民国は正式に連合国側の一員となったのです。連合国とは、日本、ドイツ、イタリアなどの枢軸国と敵対する国家連合です。

1945年 – 「第二次世界大戦終結」

第二次世界大戦終結直前、日本は人類史上初めて原子爆弾を投下された

1945年、ドイツと日本の降伏により、第二次世界大戦および大東亜戦争は終結します。そして、敗北の際に日本が受諾した「ポツダム宣言」に中華民国政府も署名していたため、日本は中華民国に敗北したことになりました。

ポツダム宣言とは、イギリス首相とアメリカ大統領、中華民国主席の名のもとに発表された、日本への降伏要求の最終宣言です。そして、日本がポツダム宣言を受諾したことで、長く続いていた日中戦争も終わりを迎えました。

しかし、中国国内では日中戦争終結後に再び国共内戦が始まってしまいます。その結果、日本が中国と正式な講和条約を締結するまで長い時間が必要となってしまったのです。

1949年 – 「中華人民共和国成立」

中華人民共和国の国旗

1949年、第二次国共内戦において勝者となった中国共産党が全権を掌握し、社会主義国家である中華人民共和国が成立しました。そして、敗れた中国国民党の蒋介石を含む中華民国政府は台湾へと逃れたのです。

中華人民共和国の成立直後、南北に分断されていた朝鮮半島において朝鮮戦争が勃発します。この時、北朝鮮を中華人民共和国が支援しており、韓国をアメリカが支援していました。

その後、アメリカは日本を自陣営に取り込む目的でサンフランシスコ講和会議を開催。そして、この会議で締結されたサンフランシスコ平和条約によって、日本は主権の回復を認められたのです。しかし、この議席に中華人民共和国および中華民国は双方共に招かれず、日中両国の講和は先延ばしとなりました。

1952年 – 「日華平和条約」

台湾に逃れた中華民国の国旗

1952年、日本は蒋介石政権下にあった中華民国政府との間で日華平和条約を締結します。この条約は、両国間における日中戦争の戦争状態を終了させる講和条約となりました。

そして、日本と中華民国の戦争状態の終結が宣言された後、中華民国は日本に対する賠償請求の権利を放棄。その後、日本は中華民国と国交を回復し、中華人民共和国ではなく中華民国政府を中国の代表政府として承認したのです。

また、この条約が成立した背景には、朝鮮戦争の勃発によって緊迫したアジアにおける情勢の変化がありました。即ち、日華平和条約の真の目的は、アメリカ合衆国を中心とした反共産主義同盟の形成にあったのです。

しかし、1972年に日中共同声明が発表されると、中華民国政府と中華人民共和国政府の立場が逆転します。この声明によって、日本は中華人民共和国と国交の正常化に合意し、中華人民共和国を唯一の政府であると承認しました。その結果、中華民国政府との間で結んだ日華平和条約は事実上の失効となってしまったのです。

日中戦争に関するまとめ

今回は日中戦争について解説しました。

日中戦争は、盧溝橋事件をきっかけに始まり、中国軍の徹底抗戦によって長期にわたる全面戦争へと発展しました。その後、日米開戦により太平洋戦争へ事態が拡大すると、日本は次第に後退を余儀なくされます。その結果、日本は敗戦し、中国を含む連合国の勝利によって戦争は終結したのです。

この記事では日中戦争について、特徴から歴史の背景まで紹介しましたが、ナチス・ドイツを中心としたヨーロッパにおける第二次世界大戦の歴史についてより詳しく調べてみるのも面白いでしょう。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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1 COMMENT

匿名

司馬遼太郎氏、吉川英治、山岡荘八各氏のように極東の近現代史を題材にした、歴史文学を著作するつもりで学ぶとかなり違います。

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