フランス革命とは、「フランスの領地を所有する貴族と高級権力者の支配する制度が破壊され、国民が権力を持つようになった社会変化」を指します。革命によって、貴族と上層市民が対等の地位になったのです。
日本でも「フランス革命」を題材にした「映画」や「舞台」、「漫画」に至るまで、数多くの作品の題材となっています。しかし実際は断片的にフランス革命の事件を知っていたりしても、意外と結局どういった革命だったのか知られていないのも事実です。
「フランス革命ってどんな革命なんだろう?」
「フランス革命についてWikiでみたけどわかりやすくない!つらい!」
「フランス革命を原因や結果、流れを簡単に知りたい!」
そういった背景から、フランス革命を調べだし、このような疑問を抱いているいる人も少なくないのではないでしょうか?
10年という期間ですが、その間に濃い歴史が多く刻まれました。この記事では、フランス革命の全容を出来るだけ分かりやすく、簡単に説明をしていきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
フランス革命とは?
フランス革命(英語:French Revolution/仏語:Révolution française)とは、1789年から1799年の間に行われた、フランス絶対王政が倒され「封建制廃止」「人権宣言による万民の平等」などが謳われた市民革命です。
僅か10年間の間に、ヨーロッパでも特に絶対王政が強かったフランスの封建制度が崩壊し、近代国家制を築くための第一歩として世界史上においても、大きな分岐点の一つとなりました。革命により完全ではないですが、貴族だけではなく、その他の国民も政治に参加できるようになったのです。
フランス革命の流れを簡単に解説すると?
フランス革命は10年間の間にまず不満を募らせていた国民が、1789年にパリのバスティーユ牢獄を襲撃することが皮切りとなり、革命は始まります。
当時の政権には「ジロンド派」という中級層の市民が集まった穏健派の派閥と、「ジャコバン派」という低階層の過激な派閥がありました。元々はジロンド派が主権で行っていたのですが、次第に両派閥は対立し、最終的にジャコバン派が革命の主導権を握ることとなります。そしてジャコバン派の指導者マクシミリアン・ロベスピエールが中心となり、「恐怖政治」が行われたのです。
彼らは「革命裁判」を行い、ルイ16世・王妃マリーアントワネットの処刑を行い、次々と貴族や聖職者・ジロンド派の人間たちを捕まえて処刑していきました。ジャコバン派の過激な行動により、フランスは混乱期を迎えるのですが、最終的にはロベスピエールも処刑されることにより恐怖政治も終わりまます。
その後も混乱していたフランスですが、天才軍師ナポレオン・ボナパルトが現れ、統領政治が行われることとなりました。バスティーユ牢獄の襲撃から、ナポレオンが統領になるまでがフランス革命と定義されています。
革命前の時代背景
そもそもヨーロッパの中でも強い絶対君主制を行っていたフランスでなぜ革命が起きたのか?もちろんそこには、長年蓄積された腐臭漂う古い絶対君主制に対しての国民の不満がわだかまっていました。その革命前の背景として大きく二つの要因が挙げられるでしょう。
アンシャン=レジームへの不満
フランスには後に「アンシャン=レジーム」(旧体制)と呼ばれた身分制度がありました。アンシャン=レジームは、第一身分:聖職者、第二身分:貴族、第三身分:平民という明確に分かれた身分制で、第一身分の聖職者と第二身分の貴族は特権階級と呼ばれていました。
第一身分と第二身分の特権は、免税特権は政治に関与できる権利でした。第三身分の平民は自分たちだけが税金を徴収されて、それが聖職者や貴族・王政のために使われることに不満を感じていたのです。これが革命が始まる一つの序章です。
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財政問題が起こる
フランス王室は慢性的な赤字で、代々積み重なった赤字は国家の歳入の9倍ほどであったといわれています。そして当時フランスは歴史的な小麦の不作によりパンの値段が高騰し、市民の怒りは高まっていました。
それに加えてフランス王家は、財政赤字を減らすために国民の徴税を強め、国民の負担は大きくなっていきました。これにより市民の怒りは最高潮に達した状態となったのです。
革命が起こった原因は?
フランス国民の不満は徐々に、長い年月をかけて積み重なっていきました。そしてその不満にとどめを刺す出来事が、立て続けに起こってしまったのです。代表的な出来事を三つ挙げます。
度重なる外征による国庫の破産
当時のフランスは、多額の軍事費がかかっていました。その理由は、フランスにとっての敵国のイギリスがアメリカ独立戦争を始めたために、多額の軍事援助をアメリカに行ったためです。その他にも欧州内の戦争も続けて行われていました。フランスの国庫は事実上破産していたのです。
絶対王政において戦争は不可欠なものでした。理由は戦争による領土の拡大・航海・貿易・植民地の増加は貴族とブルジョワ層を喜ばせ、国民に国王の偉大さを示す良い機会だったからです。しかし度重なると戦争は国庫の負担が大きくなり、民衆への重税へと繋がりました。
特にアメリカ独立戦争は、イギリスへの優越感は得ることができたのかもしれませんが、勝利したとはいえフランスは何も得られませんでした。残っていたのは、多くの負債と増税だったのです。
身分制度への不満
前述で少し触れましたが、アンシャン=レジームの身分制度では特権階級が納税義務が免除され、第三身分の平民のみが納税義務があるという不平等なシステムでした。その上に国王が新税の導入を求めたことで国民の不満が更に増してしまったのです。
ルイ16世の時代に決定的となった財政困難のために、政府は打開策として免税特権を有する身分から課税を図っています。しかし貴族身分を擁護するパリ高等法院が新税を拒否し、国王は三部会の招集をしています。
決議の内容は「特権階級から税金を取るか」でしたが、三部会は身分ごとの一票の議決権のため、第一身分と第二身分が圧倒的に有利になります。当然第三身分から反発にあい議会は行き詰ってしまいました。こうして新税導入の時に不平等さが更に露見し、結果この時の三部会がフランスの歴史で最後の招集となり、不満を持った第三身分の国民議会が出来るきっかけとなりました。
啓蒙思想の活発化
17世紀から18世紀にかけて、フランスを中心に啓蒙思想という思想が活発化していました。有名な啓蒙思想はルソーの「社会契約論」に代表し、キリスト教といった権威を批判し理性を重視する考え方が広まっていました。
啓蒙思想は合理的ではない伝統や制度を批判し、理性的に考えることを重視します。そのため「自然権」や「三権分立」の重要性が認識され、市民権が主張されるようになりました。このように自由や平等といった思想が、フランス革命に大きな影響を与えることとなったのです。
フランス革命で起きた3つの事件
革命が起こっていた10年間は、フランス国内で多くの紛争が起こり混乱が生じました。そんな時代には大小多くの事件が起きましたが、全てを紹介するのは困難ですので、事件の中でも特にフランス革命に影響を与えた事件を3つ紹介します。
1.バスティーユ襲撃事件
バスティーユ牢獄襲撃事件とは、1789年に起こった群衆がバスティーユの牢獄を襲撃した事件です。事件の概要は、当時フランスは第三身分が従来の三部会を不服とし、「国民議会」と呼ばれる議会ができていました。国民議会は王の軍隊の撤退を要求していましたが、国王は撤退させずに、逆に外出と集会の禁止令を出したのです。
それに反発した国民議会の中心人物のオルレアン公爵のパレ・ロワイヤル邸で、王の布告を無視して民衆が集まっていました。国王は軍を差し向けましたが、「武器を取れ!市民よ」と演説が行われ6000人が立ち上がります。
そして群衆がフランス衛兵と共に廃兵院に押しかけ、3万丁の小銃を奪いバスティーユ牢獄を襲撃しました。その後国王の軍隊はパリ全土で敗北し、各地方での反乱へと発展していきました。この頃には軍隊を動かす費用も食料もなかった国王軍は、国民軍に屈服し軍を引いて国民議会に出席し「朕は国民と共にある」といい和解を宣言しました。
この騒動で軍を指導していた宮廷貴族は群衆に処刑され、有力な宮廷貴族は国外に逃亡し、国王だけが第三身分の捕虜同然の身となりフランスに留まっていました。この時生まれた革命のスローガンは「自由・平等・財産」でした。
2.国王の逃亡(ヴァレンヌ事件)
国民議会の変革に歯止めをかけようとしていた国王ですが、止められないことを悟り1791年にパリを逃亡しています。国王一家は東部国境に近いヴァレンヌまで辿り着きましたが、そこで捕まり逮捕されました。
国王たちは変装をして午前一時にてテュイルリー宮殿を抜け出し、逃亡が分かるとパリに厳戒態勢が引かれ捜索隊が編成される事態となりました。怒った民衆は宮殿になだれ込み、国王の胸像をたたき壊し退位を要求するといきり立っていたといいます。
国王たちの馬車は予定よりも進行が大幅に遅れていたために、目撃情報により先回りされヴァレンヌの町で拘束されます。国王一家が休んでいた宿には、数万の民衆がやじ馬で集まったそうです。
国王たちはヴァレンヌからパリに引き返しますが、その道中では各地に「国王に礼を尽くすものは撲殺。国王に非難を加えるものは縛り首」と書かれたビラが貼られました。パリは沈黙で国王一家を迎え入れ、以後の国王は「民衆には裏切者、革命にとっては玩具」となってしまいました。
またこの事件により、国王は逃げ外国の力を借りて攻め込んでくるという認識を国民に与えてしまう結果となってしまいました。その結果今まで王党派だった人まで、態度を翻してしまったのです。
3.国王・王妃の処刑
王たちはパリに戻るとタンプル塔に幽閉されました。そして4か月後には成立された「国民公会」により王政の廃止が決定され、1793年1月に国王は死刑判決を受けコンコルド広場で処刑されました。そして9か月後には王妃マリー・アントワネットも処刑されています。
この時期は急進左派のジャゴバン派が支持を得ており、代表のロベスピエールが「革命の敵」とみなした聖職者や貴族・平民身分を問わずに厳しい対応を取っていました。次から次へとギロチンにかけられる中、王政が廃止になると国王・王妃は身分を失い平民となり、「革命裁判」で裁かれることとなったのです。
そして1792年12月から国王を裁く「国王裁判」が行われ、翌月には国王の有罪・死刑が確定し翌年1月に処刑されました。そして同じ年の10月にはマリー・アントワネットの裁判も行われ、オーストリアへの情報漏洩、贅を尽くした罪、息子との姦淫の罪により死刑が確定し、翌日処刑されたのです。
マリー・アントワネットの死因と処刑日は?最後の言葉や名言も紹介
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