ルソーってどんな人物?【思想や文学作品、人物像まで詳しく解説】

ルソーの年表

1712年 – 0歳「ジャン=ジャック・ルソー誕生」

男の子の赤ちゃん

1712年、ジャン=ジャック・ルソーは父イザーク・ルソーと母シュザンヌ・ベルナールの間に誕生します。ルソーの実家は代々時計師を営んでおり、父イザークも時計職人でした。

当時の時計職人は高い身分を持っており母シュザンヌの実家も裕福だったため、ルソーが生まれた当時は決して貧しいわけではなかったのです。

母親の死

しかし、ルソーが生まれて9日後に母親のシュザンヌが亡くなりました。これにより、5年後にルソーたち一家は上流階級が住む場所から庶民の住む場所へと移住します。

ルソーの子ども時代は孤独だった

この頃のルソーは病気がちであり、それに伴って精神面が不安定になっていきました。これは晩年のルソーを苦しめた被害妄想や生涯にわたる不安症の原因とされています。

7歳から高度な学問を学ぶ

ルソーの母シュザンヌは美しく賢い女性でした。ルソーはその聡明さを受け継いでおり、父親や叔母の教育によって貪欲に知識を得ていきます。

文字の読み書きはもちろんのこと、7歳から歴史書や小説などを読むようになりました。特に帝政ローマ時代の著述者プルタルコスの『英雄伝』を好んで読んでいたといいます。

1722年 – 10歳「ルソーの父親が失踪」

10歳で父親と生き別れる

順調に学問を吸収していた矢先、ルソーの人生を変える出来事が起こりました。父イザークが元軍人の貴族ゴーティエと喧嘩し、故郷ジュネーヴから失踪してしまったのです。

ルソーには兄がいましたが、奉公に出されており行方知れずでした。ルソーはたった10歳で孤児となってしまったのです。

寄宿生活や奉公先で辛い日々を送る

孤児となったルソーは叔父の伝手により、従兄弟と一緒に牧師ランベルシュに預けられ寄宿舎で暮らすようになります。寄宿生活では牧師の妹から理不尽な理由で折檻という名の虐待を受け、辛い日々を過ごしました。

12歳で彫金師のもとで奉公を始めましたが、ここでも虐待を受けます。その影響でルソーの心は荒んでいき、盗みや虚言を吐く不良少年となりました。

1728年3月 – 15歳「故郷を離れて放浪生活を開始」

15歳で故郷から旅立ったルソー

1728年、ルソーはジュネーヴの市門の閉門時間に遅れてしまいます。これをきっかけにして、故郷を離れ放浪生活を開始しました。

持ち物は護身用の剣と少額のお金だけ。現代のバックパッカーよりも厳しい旅路でした。ルソーは故郷ジュネーヴから南へと行き、サヴォイア公国(現在はイタリアの一部)にたどり着きます。

ヴァランス夫人との出会い

ルソーはカトリック司祭の紹介で14歳年上のヴァランス夫人と出会います。彼女はルソーの人生に大きな影響を与えた人物であり、のちに愛人関係にまで発展した女性です。

ヴァランス夫人は15歳で結婚したのち、夫婦関係の悪化により家を出てサヴォア公の保護のもと生活していました。多額の年金を受け取っていたので、15歳の子ども1人を養うには経済的余裕があったのです。

ルソーを魅了したヴァランス夫人

ヴァランス夫人と初めて会ったときの様子をルソーは後にこう語っています。

わたくしは、優美さに満ちた顔、優しい青い美しい目、まばゆいばかりの顔色、そしてうっとりとさせるほどの胸の輪郭を見たのだ。

すっかりヴァランス夫人に魅了されたルソーですが、当初ヴァランス夫人はルソーを下宿させるのではなく救護院で暮らせるよう手配しました。

助任司祭の言葉によって改心する

ルソーの救護院での暮らしは短く、たった2ヶ月で院を飛び出します。その後は幼い頃の盗みや虚言癖がひどくなり、安定した職には着けませんでした。そんな時、20歳年上の助任司祭から優しい援助と助言をもらいます。

「小さな義務を果たすことも英雄的なことです。常に人から尊敬されるように心がけなさい」と助任司祭に諭されたルソーはやっと改心することを決意しました。

1729年 – 17歳「ヴァランス夫人と同居」

助任司祭の言葉によって改心したルソーはヴァランス夫人のもとに戻り、彼女に引き取られることになります。この時は愛人関係ではなく、二人は親子のような間柄でした。

ヴァランス夫人はルソーの将来を思って神学校などに入学させましたがルソーはあまり興味を示さず、パリに向かった夫人を追う形で再び放浪生活を始めてしまいます。

父親との再会

7年ぶりの再会だった

しかし、そんな旅路に嬉しい出来事がありました。約7年ぶりに父親と再会したのです。ルソーは放浪する前にヴァランス夫人の女中を実家まで送っていたのですが、その途中で父親と再会しました。

父イザークもルソーも涙ながらに再会を喜びましたがここで親子が共に暮らす事はなく、ルソーは女中を実家に送り届けたあと再び放浪の旅に出ます。

1731年 – 19歳「はじめてのパリ訪問」

14世紀からあるパリ市庁舎

放浪生活の途中、ルソーはフランス大使館の計らいでパリへ訪問することになりました。ルソーにとって初めてのパリ訪問です。しかし、そこでルソーが見たパリの都市は決して華やかとは言えないものでした。

不衛生で悪臭が漂う道路、貧困に苦しむ人々が住んでいる汚い家。現在で言われるような「花の都パリ」とは程遠い状態だったのです。ルソーはフランスの都市部の現実を見たのち、ヴァランス夫人を追って農村部の方へと移動しました。

フランスの農村部は美しい自然に溢れていましたが、農家に宿泊していたルソーは農民たちが重税に苦しんでいることを知ります。はじめてのパリの訪問は、フランス社会の醜い現実をルソーに知らしめることとなったのです。

ヴァランス夫人と愛人関係になる

約1年間の放浪生活を経て、ルソーはヴァランス夫人と再会します。そして再び共に暮らすようになりましたが、夫人が開いている音楽会でルソーが他の女性の注目を集めるようになりました。

親子のような関係から愛人へ

これに危機感を持ったヴァランス夫人によってルソーは夫人と愛人関係になります。当時ルソーは親子のような間柄から愛人へと変わった夫人との関係に戸惑っており、「近親相姦をしたような気分だ」と告白しました。

独学で様々な学問を学ぶ

ヴァランス夫人との愛人関係が続くなか、ルソーはとある薬品事故に巻き込まれてしまいます。体調著しく崩したルソーは人生を見つめ直し、様々な学問に取り組むようになりました。

不良少年だった頃も読書は欠かさず行っていたためルソーの学習力は凄まじいものであり、哲学からラテン語などを独学で習得したのです。ヴァランス夫人もルソーの学習を支援し、ルソーは人生で1番幸福な時間を過ごしました。

1742年 – 30歳「パリで学会に登場する」

パリのサロン(宮廷や貴族の邸宅での社交会)の様子

ヴァランス夫人との愛人関係は約5年間続きましたが、ある時夫人が若い青年を愛人として住まわせるようになりルソーとの愛人関係は終わりを迎えます。

その後は家庭教師の職を経て、再びパリへ訪問し音楽を教えながら生計を立てました。そんな中、パリの学会に『新しい音符の表記法』を提出します。経済的な支援にはなりませんでしたが、フランスの哲学者ドゥニ・ディドロなど様々な人々との交流を持つきっかけとなりました。

テレーズとの出会い

パリに来てから特に外出もせず引きこもっていたルソーですが、そんな彼に突然恋が訪れます。のちの結婚相手であるテレーズとの出会いです。ルソーとテレーズは「結婚はしないがそばにいる」という「事実婚」の形で人生を共にします。

貧しさから子どもを孤児院へ送ることは珍しくなかった

結婚はせずともルソーとテレーズは仲睦まじく、5人の子宝に恵まれます。しかし、貧しく経済的余裕がなかったルソーはやむ無く5人の子ども全員を孤児院に預けることになりました。

ルソーは著書『エミール』でこの出来事を深く反省しています。ただ、当時のフランスは年間3000人の子どもが孤児となっていました。つまりは社会的にルソーと同じ決断をした親が多かったのです。

『学問芸術論』を執筆

『メルキュール・ド・フランス』の雑誌広告に載っていた課題論文の募集欄を見たことがきっかけとなり、ルソーは『学問芸術論』の執筆を始めました。

課題論文のテーマは「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、腐敗させたか」というものであり、ルソー独自の考えを論じるのにぴったりの内容だったのです。

『学問芸術論』の執筆はルソーの哲学者としての転機だった
出典:岩波書店

ルソーは『学問芸術論』にて、本来善良であるはずの人間が社会や文明ならび文化の発展によって堕落すると論じました。そして、これが道徳の堕落と人間の不平等に通じると独自の考えを展開したのです。

『学問芸術論』は科学アカデミーに入賞し、ルソーは一躍有名人として知られるようになりました。

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