武則天とはどんな人?生涯・年表まとめ【女帝の功績や逸話も紹介】

「武則天ってどんな人?」
「武則天は中国三大悪女の一人って本当?」
「武則天に関連する本やドラマが知りたい!」

この記事をご覧の方はそんな疑問をお持ちかもしれません。武則天は中国史上初の女帝となった人物です。

則天武后とも呼ばれますが、この記事では「武則天」で呼称を統一します。彼女は唐の3代皇帝高宗の皇后で、病弱な高宗に代わり政治の実権を握りました。

「科挙」と呼ばれる国家公務員試験で採用した官僚を積極的に登用し、唐王朝の皇族や建国時に活躍した鮮卑系貴族たちを抑制しました。高宗の死後には自分の子である中宗や睿宗を皇帝の位から追いやり、中国史上初の女帝に上り詰めます。

権力獲得のため時に我が子でさえも犠牲にする武則天の振る舞いには賛否両論、中国三大悪女の一人とも評されました。今回はそんな武則天の生涯を功績や逸話、関連本やドラマも交えてまとめます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

武則天(則天武后)はどんな人物か

名前武照(武則天・則天武后)
誕生日624年1月23日
没日705年12月16日
生地四川省広元市(皇沢寺)
没地洛陽(上陽宮)
配偶者高宗
埋葬場所乾陵

武則天の生涯をハイライト

武則天は現在の四川省広元市にあたる利州で生まれました。本名は武照と言い、現在彼女が生まれた場所には皇沢寺が建てられています。父の武士彠(ぶしかく)は隋末から唐初にかけ活躍した武人で、唐の建国の際高官に任じられた人物です。

12歳の時に父を失うと、異母兄や従兄弟に虐げられ悲惨な生活を送ったといいます。彼女の人生が変わったのは637年に唐の2代皇帝太宗(李世民)の後宮に入った時からです。「媚」と名付けられた彼女は聡明さで知られるようになりました。

武則天を寵愛した3代皇帝高宗

しかし、太宗は武則天の美しさと聡明さが唐王朝に災いをもたらすのではないかと警戒し、彼女を遠ざけてしまいます。そこで武則天は太宗の子で皇太子の李治に近づき、太宗の死後に皇帝となった李治(以後、高宗)の後宮に入りなおすことに。

紫禁城に残される皇帝の玉座

後宮に入った武則天は策謀の限りを尽くしてのし上がり、皇后の地位を手に入れました。そして、病弱な高宗にかわって政治の実権を握り「垂簾の政」(玉座の影から皇帝を操って政治を行うこと)を行って権力基盤を固めます。

高宗の死後、子の中宗や睿宗が即位しますが彼らを強制的に廃位し自ら皇帝の地位につきました。中国で女性が皇帝についたのは武則天が最初で最後です。皇帝となった武則天は科挙出身の優秀な官僚を登用する一方、反対派を次々と粛清しました。しかし、老齢で病を得た武則天は705年に退位。中宗が復位して唐が復活します。その翌年、彼女は亡くなりました。

中国史上唯一の女帝

武則天の肖像

武則天は中国の歴史上、最初で最後の女帝です。中国全土を統一し、皇帝の称号を作り上げた始皇帝以後、多くの皇帝が中国に誕生しましたが女性が皇帝となることはありませんでした。

中国では女性が男性にかわって権力を持つことを否定する風潮がありました。儒教の書物の一つ『書経』に「牝鶏(ひんけい)時を告ぐる」という言葉があり。これは、メスの鶏が朝を告げるのは家が滅びる前兆だ」という意味です。オスの鶏の役目をメスが奪うことを「ダメ」なこととする考えが中国にあったことがわかります。

こうした女性にとって環境だったにもかかわらず皇帝となった武則天は歴史上希な能力を持った女性だといえるでしょう。

中国三大悪女の一人

三大悪女の一人、西太后

武則天は中国三大悪女の一人に数えられます。ほかの二人は漢の高祖劉邦の妻だった呂雉(りょち)と清の末期に権勢をほしいままにした西太后です。三人に共通するのは絶大な権力を持ち、その時代を支配したということです。

武則天が三大悪女の一人とされる理由は、ライバルに対する過酷な仕打ちにあります。高宗の後宮に入った武則天にとって、邪魔な人物が二人いました。一人は王皇后、もう一人は蕭淑妃です。

武則天は高宗と自分の間に生まれた女子を自ら殺害し、あたかも王皇后や蕭淑妃が殺害したかに見せかけ、彼女たちを失脚させました。そればかりか、皇后となった彼女は二人の四肢を切断し酒壺につけて惨殺したといいます。

我が子を利用して皇后や皇帝の地位へ

武則天は皇后や皇帝の地位を手に入れるため、時には我が子さえも利用しました。高宗との間に生まれた幼子を殺し、ライバルの王皇后らを失脚させたのはその最たるものです。

武則天の傀儡となった睿宗

高宗の死後、武則天は自らの子を中宗として即位させる政治の実権を握り続けました。しかし、中宗が武則天の支配から脱しようというそぶりを見せると迷うことなく皇帝の地位から引きずり下ろしました。かわって即位した睿宗も武則天の傀儡でした。

そして、武則天が政治基盤を固めると用済みとなった睿宗も廃位されます。武則天にとって、子供たちといえども自分の権力を維持するための「道具」だったのかもしれません。

1 2 3

コメントを残す