仏教を篤く信仰
武則天は篤く仏教を信仰した人物としても知られています。唐を建国した李氏は老子の末裔と自称したため、唐王朝では道教が重んじられていました。しかし、彼女はその先例を覆し仏教が道教に優越するとしたのです。
そして、彼女は各地に寺を建立し莫大な寄進を行いました。ついには自ら弥勒菩薩の生まれ変わりと称するようになります。弥勒菩薩はシャカの次に現れる仏とされ、56億7千万年後に地上に現れこの世を救済すると信じられました。
彼女は自らを弥勒菩薩になぞらえることで、この世の改革を実行する決意を新たにしていたのかもしれません。
密告で反対者を次々と排除
武則天は前代未聞ともいえる密告制度(告密の門)を作り上げました。これにより、自分に反対する勢力をあぶりだそうとしたのです。密告されたものは唐王朝に連なる李氏一族であろうと、建国の功臣の子孫であろうと、容赦なく一族皆殺しの憂き目にあいました。
彼女は「酷吏」とよばれる役人たちを登用し、密告にもとづく粛清を実行させました。彼らは法を厳格に適用することで国民を締め付け、反対者を粛清していきます。そして、ついには自分と同族の武一族でも反対する者は処刑されるようになりました。
もちろん、排除される側も黙っていたわけではありません。武則天の天下を覆そうと各地で反乱を起こしました。しかし、反乱に同調するものは少なくすぐに鎮圧されてしまいました。そのため、武則天が生きている間、彼女の政治に反対する者はいなくなります。
武則天の功績
功績1「科挙で優秀な人材を登用」
武則天の一つ目の功績は科挙で優秀な人材を登用したことです。科挙とは、現在の国家公六試験にあたる制度です。隋の時代に導入された仕組みでしたが、武則天の時代には科挙の役人よりも先祖代々の貴族の方が力を持っていました。
皇帝家である李氏の一族や建国の功臣たちの子孫(門閥貴族)にねたまれていた武則天は貴族たちの支持を得にくい状況にありました。そのため、低い地位にとどまっていた優秀な科挙官僚たちを登用し、門閥貴族たちに対抗します。
狄仁傑(てきじんけつ)や姚崇(ようすう)、宋璟(そうけい)、張説(ちょうえつ)などは武則天によって登用された科挙官僚たちです。彼らの力により政治は安定しました。
功績2「武周を建国」
武則天は690年に自ら皇帝に即位しました。武則天の子で唐の皇帝だった睿宗をはじめ6万人もの人々は国号を唐から変更することを要請します。それを受け、武則天は国号を「周」と改称しました。他の時代の周と区別するため、武則天の周は「武周」とよばれます。
武則天は副首都の役割を担っていた洛陽を武周の都と定めます。国号が変わっても基本的な国家システムは唐とほとんど変わりませんでした。武周において政治の実務を担ったのは彼女が登用した科挙官僚たちでした。
科挙官僚たちの行政手腕により武則天の治世は安定したものになり、大規模な農民反乱は発生しなくなります。武則天が失脚したのち、国号は唐に戻され科挙官僚たちは玄宗皇帝の「開元の治」を支えました。
武則天の人物相関図
武則天にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「道士に”天に上る”と予言された」
武則天が生まれて間もなく、一人の道士が武則天の家を訪れました。道士とは、中国で信じられていた道教の専門家のことです。その道士は武則天を見るなり、「この子は将来、必ず天に上るであろう」と予言しました。
天に上るというのは、一般人の身分からはるかに出世し皇帝のそば近くで使えることを示唆します。この予言を聞いた武則天の父は、彼女に英才教育を与えました。結果的に、同氏の予言は的中し武則天は後宮に仕え、最後には皇帝に登りつめます。
都市伝説・武勇伝2「楊貴妃と並ぶ傾国の美女」
武則天は、若いころから聡明さと美しさを兼ね備えた美女として知られていました。唐の時代、後世にまでその名が伝わる美女として楊貴妃が有名ですが、彼女の美貌はそれに劣らなかったといいます。
歴史書は「漆黒の髪に切れ長の大きな目、雪のような白い肌で桃色の唇をもち、バラ色のほほをしていた。笑顔は人を魅了し、頭脳明晰」と記録しています。まさに、才色兼備といったところでしょう。
古来、中国では絶世の美女のことを「傾国の美女」といいます。楊貴妃は玄宗皇帝に溺愛させ、玄宗に政治を忘れさせました。武則天を寵愛した高宗は彼女の政治関与を許します。思うままに美女を選抜できる皇帝を骨抜きにしたという点で、二人の美は絶対的なものだったのでしょう。