ベルリンの壁はいつ、なぜ崩壊したのか?一連の流れや現在の様子も紹介

東ドイツ国民の不満

東ドイツでは貧しい生活を強いられていた国民たちが立ち上がり、国を改革しようという運動も活発化していきます。9月4日にライプツィヒで行われたデモを皮切りに運動は激化し、10月23日には30万人もの東ドイツ市民がデモ行進に参加して改革を叫びました。

さらに次々に民主化に成功する隣国を見ていた東ドイツ人たちは、一向に改善されない生活や変化のない政府に不満を募らせていきました。自国の改革の遅れに失望し国外移住を申請する東ドイツ人たちが後を絶たず、その申請数は1989年9月までに16万1000人にも上りました。

広報担当者の勘違い

ギュンター・シャボフスキー

ベルリンの壁崩壊の最後の引き金を引いたのは、記者会見を行った東ドイツの社会主義統一党中央委員会政治報道局長だったギュンター・シャボフスキーです。

1989年の11月8日から「旅行における出国の規制緩和を11月10日より行う」という内容の政令を作成するために中央委員会が開かれていました。

広報担当だったシャボフスキーに渡った文書には「政令の適応は直ちに」としか明記されておらず、記者会見の打ち合わせなどで政令の討議時に委員会には出席していなかったシャボフスキーは11月10日から適応ということを知りませんでした。

そのため記者会見でシャボフスキーは「政令の適応は直ちに」と発表しマスコミがこぞって報道したため、東ドイツ市民が混乱してベルリンの壁に押し寄せる事態となりました。

当時のベルリンの様子

秘密警察「シュタージ」

シュタージ本部にて

「シュタージ」とは東ドイツの秘密警察で、西ドイツに対する諜報活動や東ドイツの国民の監視が主な活動でした。

西ドイツとは大きく異なる体制を持つ東ドイツ政府は、国民の意識を国外に向けさせないため徹底した思想・言論統制を行っていました。そのためシュタージは東ドイツの人々の生活を常に監視し、政府に不満を持つ者や亡命を企てる者を見つけ出しては投獄しています。

またベルリンの壁にある国境検問所に配置されていたパスポート審査官も「シュタージ」から派遣されていました。検問を通過する人々のチェックはパスポート審査官が行っていたため、検問所の実権は実質シュタージが握っていたと言えます。国境警備隊の役割はあくまで検問所の外側の治安を維持することでした。

東西ベルリンの人の流れ

建設中のベルリンの壁

1949年にドイツが東西に分裂してからも、ベルリン市内においては1961年8月13日にベルリンの壁が建設されるまで自由に往来ができていました。実際、職場がベルリンの西側で自宅が東側といった人々も当時は多く見受けられたといいます。

しかしベルリンの壁が建設されてからは自由な往来は制限され、国境を超えるにはいくつか存在した国境検問所で厳しいチェックを受ける必要がありました。

しかし国境の厳重化など政府からの圧力に不満を持った東ドイツ国民たちが、次々に西ドイツに逃亡を図ることになります。毎年15万から30万人の東ドイツ人が西ドイツに流出し、1961年には東ドイツの人口が約1700万人、西ドイツの人口が約6000万人にまで差が開いてしまいました。

ベルリンの壁が崩壊した事による影響

東西ドイツが統一された

ドイツ統一を祝う人々

ベルリンの壁が崩壊したことによってドイツの国境は取り払われたため歴史的には「東西ドイツ統一」と呼ばれますが、正しくは東ドイツが西ドイツに加盟したといった方が正確です。

1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊した後、東ドイツでは憲法から「ドイツ社会主義統一党が国家の指導を行う」という条文が削除され、一党独裁政治が終焉を迎えました。翌年1990年3月には自由選挙が行われ、ドイツ統一を主張していた「ドイツ連合」が勝利します。

5月5日に東西ドイツと米英仏ソの6ヶ国外相会議が開催され、通貨や経済においての条約を結び西ドイツの通貨であるドイツマルクが東ドイツに導入されます。8月31日にはドイツ再統一条約が結ばれ、10月3日に西ドイツの基本法23条に基づき東ドイツが西ドイツに加入する形で統一を果たしました。

冷戦の終結

マルタ会談の様子

東西冷戦の象徴とも呼ばれた「ベルリンの壁」が崩壊したことは、冷戦終結の大きな一歩となりました。

ベルリンの壁が崩壊した翌月の12月3日、マルタ共和国においてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュとソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフの会談が行われ、冷戦の終結が宣言されました。これをマルタ会談といいます。

ソビエト社会主義共和国連邦はロシア共和国が連邦を脱退したことを皮切りに、バルト三国などが相次いで独立した結果1991年の12月25日にソ連は崩壊しました。その後、東欧諸国や旧ソ連の一部の国々は、相次いで資本主義国家へと変わっていきました。

ベルリンの壁崩壊に関する逸話

壁の残骸が売買された

売買されるベルリンの壁の破片

破壊されたベルリンの壁の破片はお土産品として一般にも販売され、日本でもデパートなどで購入することが出来たといいます。

しかしベルリンの壁の材料にアスベストが使用されていたことが判明したため、取り扱いに注意が必要でした。さらに墓石などを砕いた「偽ベルリンの壁」も見つかっており問題になっています。

2019年にはベルリンの壁崩壊から30年を記念して、壁の一部がオークションに出品されました。高さ3.6メートル、幅1.2メートルという大きさで出品され、最低50万もの値で取引されたといいます。

かまやつひろしがベルリンの壁跡でゲリラライブを行った

かまやつひろし

「かまやつひろし」はグループサウンズのひとつ「ザ・スパイダース」でデビューしたミュージシャンです。通称ムッシュかまやつとも呼ばれています。

1990年2月にドイツ・ベルリンを訪れた「かまやつひろし」は、撤去前のベルリンの壁にアコースティック・ギターを片手によじ登り代表曲である「バン・バン・バン」を歌い話題になりました。

この時のゲリラライブは同年に発売されたかまやつのアルバム「IN AND OUT」に、「バン バン バン~ON THE BERLIN WALL(1990.2.23)」として収録されています。

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