1989年11月6日ー「旅行による出国」に関する法案を発表
クレンツが率いる新しい東ドイツ政府は「旅行による出国」に関して真剣に審議し、法制化を目指すと発表しました。
しかしこの段階の法案の内容は旅行による出国は認めたものの30日以内の制限付きであったり、出国の際には国の許可がいることなどの条件付きでした。さらに特別な状況下では出国の許可が取り消される可能性があるなど、自由な往来とは程遠いものでした。
この法案は人民議会によって否決され、「旅行による出国」に関する法案は政令として作成することが決定します。1989年11月8日から始まったドイツ社会主義統一党の中央委員会で、新たに国外移住や永久出国に関する内容も盛り込むようクレンツは指示を出しました。
1989年11月9日
1989年11月9日に中央委員会で承認を受けた11月10日発効の「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令文を、クレンツは政府の広報担当であったギュンター・シャボフスキーに手渡します。この時、一緒にプレスリリース用の文書も手渡しましたが詳しい説明はしなかったと言います。
17時50分ーシャボフスキーによる記者会見
手渡されてからすぐに記者会見の会場に到着したため、ほとんど文書を読むことなくシャボフスキーは記者会見に臨むことになりました。
記者の前でシャボフスキーは
我々は本日、共和国市民の誰もが共和国の国境通過所を通って出国できるように規則化することに決定しました。
と発表します。そして「それはいつからか」という記者の質問に対して、
私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということです。
と発表してしまうのです。
これはシャボフスキーが記者会見に使用した政令文が11月10日に報道発表するために作成された物だったため、日付が明記されておらず勘違いが起こり上記の発表となってしまったのです。
19時ー国境検問所に市民たちが押しかけ始める
シャボフスキーの会見の模様は東ドイツ国営テレビで生放送されていたり周辺各国のテレビ放送やラジオ局でも聞くことが出来たました。またロイター通信・ドイツ通信・AP通信なども速報を流し始めます。そして情報を聞いた東ドイツ国民たちは、半信半疑ながら国境検問所に詰めかけ始めたのです。
そのためニュースの情報も知らず何の指令も受けていない国境警備隊と、国境を越えられると思っている市民たちのあいだでトラブルが起こります。現場の警備員が上官に指示を仰ぐも「少し待て。何もしないで待て。」といわれるばかりで、何も解決する気配がありませんでした。
その間にも検問所にはどんどん市民が押し寄せ、混乱が広がっていきました。
21時ーボルンホルム通りの検問所が開かれる
ボルンホルム通りにあった検問所では21時を過ぎたころには、詰めかけた市民たちは数万人にもなっていました。ようやく上官から「より過激な市民のみ名前を控えた上でパスポートにスタンプを押して通せ」との指示が出てボルンホルム通りの検問所が開かれました。
このスタンプが押されるということは、一度出国すれば二度と入国できないという「東ドイツの市民権の剥奪」を意味していました。21時20分ごろには他3か所の検問所でも、この方法での出国手続きの再開を命じました。
検問所を通過した東ドイツの市民たちは、踊りだす者、泣き出す者、放心する者など様々な感情を見せたと言います。
22時45分ー国境ゲートの開放
ボルンホルム通りにあった検問所を取り巻く状況は、刻一刻と緊張感を増していました。検問所に押し寄せる人々は増える一方で、ひとたび暴動が起これば止めるすべは何もありませんでした。
22時45分、ボルンホルム通りの検問所のパスポート審査官だったハラルト・イエーガー司令官は「もうこれ以上検問所を維持することはできない」と判断し完全に検問所を開放します。それと同時にその他の検問所でも国境ゲートが開放されました。
日付けが変わった11月10日午前0時ごろ、東ドイツの警察が全検問所の開放を発表し、すべての国境警備員に撤退命令が下されました。こうして東西ベルリンを隔てていた国境はすべて解放され、政治的な意味において「ベルリンの壁」は崩壊したのです。
1989年11月10日ー壁の撤去が始まる
騒動が明けた11月10日の未明には、市民たちが何処からともなくハンマーやつるはし、建築機材などを持ち寄ってベルリンの壁を破壊し始めました。そして数日後には東ドイツ政府によって重機が持ち込まれ正式に撤去が始まります。
これによって文字通りの意味でもベルリンの壁は崩壊しました。その後、有刺鉄線で隔てられていた国境も開放され東西ドイツの統一に大きく前進していくことになります。
ベルリンの壁に関連する作品
ドイツ映画「グッバイ、レーニン!」
2003年2月に公開されたドイツの映画で、東西ドイツ統合後を描いた悲喜劇です。監督はヴォルフガング・ベッカー、脚本はベルント・リヒテンベルクとヴォルフガング・ベッカー、音楽はヤン・ティルセンです。ドイツで公開され大ヒットし、ドイツの歴代興行記録を塗り替えました。
第53回ベルリン国際映画祭の最優秀ヨーロッパ映画賞を受賞したほか、海外の映画賞も多数受賞しています。
THE ALFEE「壁の向こうのFreedom」
THE ALFEEの1992年に発売されたアルバム「JOURNEY」に収録された楽曲で、ベルリンの壁がモチーフとなっています。初披露はベルリンの壁が崩壊した1989年のツアーでしたが、このアルバムでようやく収録されました。
アルバム「JOURNEY」の歌詞カードにはベルリンの壁の写真が使用されていて、別バージョンとして作曲者である高見沢俊彦のソロバージョンも存在します
ベルリンでのライブの際は「Freedom On The Other Side Of The Wall」というタイトルの英詞バージョンが披露されました。
ベルリンの壁崩壊に関するまとめ
いかがでしたか?
第二次世界大戦後の世界を緊張状態に置いた東西冷戦の象徴だったベルリンの壁は、ソ連を始めとする社会主義国家の衰退と東ドイツの広報担当のちょっとした勘違いから、いとも簡単に崩れ去りました。歴史の流れはちょっとしたことがきっかけで、当時の人々には予想もつかない結果を生むことがあります。
そのお手本のような事件であるベルリンの壁崩壊についてぜひ調べてみてください!