ベルリンの壁崩壊までの一連の流れ
1988年11月24日ーネーメト・ミクローシュがハンガリーの首相に就任
1988年11月24日にハンガリー人民共和国でネーメト・ミクローシュが社会主義労働者党の改革派党首となり、共産主義政権の最後の首相としてハンガリーの民主化に大きな役割を果たします。そしてこのことがベルリンの壁崩壊に向けての時代の流れを加速させることになりました。
ネーメト内閣が発足した日、閣僚たちは首相の執務室に集められ共産党の一党独裁から離れ、第二次世界大戦以後から続くソビエトの支配から逃れる決意を固めたと言います。
1989年5月2日ー鉄のカーテンの崩壊
第二次世界大戦以後のヨーロッパは、ソ連が管理する東側とアメリカやイギリス、フランスなどが管理する西側に隔てられました。そしてその境界線を当時のイギリス首相だったウィンストン・チャーチルが「鉄のカーテン」と名付けています。
ハンガリーでは1988年4月から国外旅行が自由化されたため、「鉄のカーテン」に張り巡らされた鉄条網はハンガリー国民にとっては意味の無いものとなっていました。ネーメト首相はソ連のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長と交渉し了解を得ると、1989年5月2日から鉄条網の撤去を開始しました。
ハンガリーとオーストリア国境の「鉄のカーテン」が撤去されたという情報を聞き付けた東ドイツ人たちは、危険を顧みず東ドイツを脱出しハンガリーに集まり始めます。
しかし、まだこの段階では国境を越えられるのはハンガリー国民に限られていたため、行き場を失った東ドイツ人たちがハンガリーに溢れ始め、その人数は約10万人にも上りました。
1989年8月19日ー汎ヨーロッパ・ピクニックの開催
そんな状況の中もう一つの計画が進行していました。のちに「ヨーロッパ・ピクニック計画」と呼ばれたこの計画は、ベルリンの壁崩壊に大きな影響を及ぼしています。中心人物となったのは、オーストリアの貴族であったハプスブルク家の末裔オットー・フォン・ハプスブルクでした。
計画の内容は1989年8月19日にオーストリアの国境沿いの街ショプロンにおいて、オットーとハンガリーの人権団体が共同で「鉄のカーテンに別れを告げる祝賀の日」のイベントを主催するというものでした。
そしてハンガリー政府が共催者として名を連ね、イベントに乗じてハンガリーに溢れた東ドイツ人たちに国境を越えさせ密かにオーストリアから西ドイツへ亡命させるのが計画の全貌でした。
1989年10月7日ー東ドイツ建国40周年記念式典
東ドイツ国民の流出は留まることなく続き、9月4日にはライプツィヒで旅行自由化を求めたデモが起こります。これ以降ライプツィヒを中心に「月曜デモ」と呼ばれる反政府デモが激化していきます。
東ドイツの指導者であったエーリッヒ・ホーネッカーにとって東ドイツの体制を維持するためには、ソ連からの支持が必要不可欠でした。
そんな中行われた東ドイツ建国40周年記念式典に出席したゴルバチョフ書記長は「遅れて来る者は人生に罰せられる」と語り、ソ連はホーネッカーの政策を支持しないと表明したのです。これによりホーネッカーのドイツ社会主義統一党内での求心力は失われていきました。
1989年10月18日ーホーネッカー失脚
10月9日にはライプツィヒのデモが7万人にも膨れ上がりました。ホーネッカーは警察などを動員して鎮圧しようとしましたが、ライプツィヒの管弦楽団の指揮者だったクルト・マズアらの反対運動により失敗に終わりました。
東ドイツ国内の混乱が拡大すると、政府内からもホーネッカーの退陣を要求する声が高まり始めます。政権ナンバー2の実力者であったエゴン・クレンツや委員会第一書記のギュンター・シャボフスキーらは手を組み、政治局会議において現政府の政治体制の誤りをホーネッカーに認めさせました。
さらに10月17日の中央委員会の政治局会議で、ホーネッカーの書記長解任の要求が提出されます。これにホーネッカー以外全員が賛成し解任動議が可決されました。そしてついに10月18日にホーネッカーは正式に退陣し、エゴン・クレンツが後任に選出されました。