富岡製糸場とは?世界遺産登録の理由や歴史、設立目的など簡単に解説

富岡製糸場とともに世界遺産登録された「絹産業遺産群」とは

「絹産業遺産群」とは、富岡製糸場とともに絹産業の発展に貢献した史跡のことを指します。世界遺産に登録された絹産業遺産群は、3つの史跡で構成されています。

  • 「田島弥平旧宅」
  • 「高山社跡」
  • 「荒船風穴」

です。どのようなポイントが世界遺産に推薦されたのか、それぞれご紹介します。

田島弥平旧宅

田島弥平は養蚕法「清涼育」を開発した人物

伊勢崎市にある「田島弥平旧宅」は、明治初期の養蚕業を主導した田島弥平の私邸です。蚕を飼うための部屋を「蚕室」と呼びますが、田島弥平旧宅には近代の養蚕農家の原型というべき蚕室構造が残っています。現在も田島弥平の子孫が暮らす古民家です。

田島弥平は明治時代初期の養蚕業を主導した人物です。弥平の発案した「清涼育」は、それまで温めて育てるものと思われていた蚕を風通しのよい蚕室で育てることで、繭の質を高めました。また、優れた成果を上げることこそなかったものの、4度にわたるイタリアでの蚕種の直売は、この時代に海外と交流して地元にキリスト教や自由民権思想を広めたという点で評価されています。

高山社跡

養蚕業の発展に大きく貢献した会社・高山社
出典:Wikipedia

藤岡市にある「高山社跡」は「清温育」という養蚕技術の開発や蚕業学校の設立によって養蚕業に大きく貢献した高山社にかかわる史跡です。高山社を設立した高山長五郎は、先ほどご紹介した田島弥平の「清涼育」と、群馬県片品村の養蚕農家が導入していた「温暖育」をかけあわせ、さらに自分自身の養蚕経験をふまえて「清温育」を確立。外気の条件によって通気性や湿度を調整する清温育によって、養蚕技術はさらに高まり、質の良い繭ができるようになりました。

長五郎は1886年に亡くなったのですが、門下生の町田菊五郎がさらに高山社を発展させます。高山社蚕業学校は60もの分教場をもち、国内のほか中国、朝鮮半島、台湾など東アジアの国々からも入学者が集まる大規模な教育機関に成長しました。現在の高山社跡には高山家住宅、長屋門、桑の地下貯蔵庫跡などが残っていて、これらはどれも江戸時代末期から明治時代前半にかけて建設されたとされています。

荒船風穴

蚕種の保存施設であった荒船風穴

「荒船風穴(あらふねふうけつ)」は群馬県下仁田町にある史跡で、人工的に作られた3つの風穴から構成されています。「風穴」とは元々空気の循環がある洞窟の一種で、長野県では江戸時代後期には養蚕に利用されていました。風穴に蚕種を保存することで、年1回しか育てることができなかった蚕を1年に何度も育てて繭を得ることができるようになったのです。

また荒船風穴は、先ほどご紹介した高山社蚕業学校で学んだ庭屋千壽(にわや せんじゅ)とその父・静太郎が作ったもので、群馬県内では最も大規模な蚕種貯蔵施設でした。現在残っているのは石積みの風穴のみですが、本来はその上に土蔵のような建物が建っていたわけです。風穴の利用は人工ふ化法の発見により廃れてしまいましたが、養蚕業を1年に何度もできるようにした功績は大きく、荒船風穴はその典型例であったため世界遺産に登録されました。

富岡製糸場の歴史

総監督を務めたポール・ブリューナが暮らした「首長館」

1872年「操業開始」

1872年11月4日、富岡製糸場は操業を始めました。操業当初の工女は210人ほど、かなり人員不足の状態でした。そのため最初は300ある繰糸器の半分ほどしか稼働していなかったといわれています。

どうしてこのような人員不足状態だったかというと、人々に広まっていた噂に原因がありました。「若い工女ばかりを募集しているのは、製糸場のフランス人たちが娘の生き血をすするからだ」という、現代から見ると荒無稽な噂がささやかれていたのです。フランス人技術者たちが赤ワインを飲むのを見た誰かが広めた噂なのでしょうが、このために応募はなかなか集まりませんでした。

工女の数は次の年には倍近くになりました。けれども規律の厳しさや工場ならではの騒音に耐えられず、1年を満たずに退職する工女も目立つことに。そのため最初はベテランの工女があまり育たず、赤字経営の一因となっていました。

赤字経営の理由はフランス人技術者たちの高い年俸にもありました。当時の一般的な日本人職工の年俸が74円ほどだったのに対し、たとえば製糸場の総監督のブリューナは9000円もの大金をもらっていたのです。任期満了でフランス人技術者たちが工場を去った後、富岡製糸場は一転して黒字になりました。

1893年「民間に払い下げられる」

製糸場で働く工女たち

官営模範工場として創業した富岡製糸場でしたが、早い時期から民営化を訴える声がありました。1878年、パリ万博で富岡の生糸の質が低下していることを指摘された松方正義は、かねてから民営化を進言していた速水堅曹に富岡製糸場の改革を任せます。富岡製糸場は当時としては巨大な工場だったため、民間の手に余ると考えられたのか、払い下げはなかなかうまくいきませんでした。

1893年、ついに富岡製糸場は三井家に払い下げられ、民間の工場となります。三井家時代の経営は良好で、第2工場や工女の寄宿舎を新設するなど設備投資も行われました。そのため工女たちの労働時間は増え、6月の実働時間はおよそ12時間だったといわれています。

1902年に三井家は富岡製糸場を原合名会社に譲渡しました。この年には「原富岡製糸所」と改名されています。1938年に株式会社富岡製糸所として独立するまでのこの期間は、世界恐慌など世界的な大不況が起こり製糸場も生産量が減少したりしましたが、新しい器械を導入するなどして乗り越え、1936年には過去最高となる14万7000キロの生産量を記録しました。

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