富岡製糸場とは?世界遺産登録の理由や歴史、設立目的など簡単に解説

1939年「第二次世界大戦」

戦時中は落下傘の製造を任されていた

1938年に株式会社富岡製糸所として独立したのですが、原合名会社の筆頭株主だった片倉製糸紡績会社に経営を一任していました。片倉は当時日本最大級の繊維企業で、1939年には株式会社富岡製糸所と合併して製糸場を「片倉富岡製糸所」に改称。合併後の1940年には18万9000キロを生産し、製糸場の過去最高生産記録を塗り替えています。

当時、日本は太平洋戦争の真っ只中でした。戦時中に片倉が所有していた製糸工場は用途が変わったり廃止になったりしましたが、片倉富岡製糸所は軍事用の落下傘を製造するために存続します。それまで製糸場では輸出をメインに製造してきましたが、初めて輸出量がゼロになりました。

1987年「操業停止」

片倉富岡製糸所は、空襲などの被害を受けることなく終戦を迎えました。1952年からは自動繰糸器を少しずつ導入し、電力をまかなうために場内に変電所も新設。1974年にはおよそ37万キロという製糸場最高の生産高を記録しています。

けれども、戦後の生活様式の変化の中で国民の和服を着る機会が減ったことや、1972年の日中国交正常化が中国産の安い絹糸の輸入を招いたこともあり、生産量は減少していきます。1987年2月27日に製糸場は操業を止め、3月5日に閉業式が行われました。

2014年「世界遺産登録」

世界遺産登録が決定したときには
パレードが催された

製糸場の閉業後、所有者の片倉工業は一般公開をせずに施設の保存と維持に力を注ぎました。固定資産税や維持管理費を合わせると年間1億円以上かかる年もあったといわれていますが、片倉工業の尽力のおかげで富丘製糸場の保存状態は良好だったそうです。製糸場を世界遺産へ推薦しようとする動きは2003年ごろから本格化し、2004年に片倉工業は製糸場を富岡市に寄贈しました。

当初は群馬県内の養蚕業や製糸業に関する文化財、さらに流通を支えた鉄道なども含んだ合計10件の文化財が候補に上がっていました。けれども世界遺産としての価値を考えた結果、現在の4件に絞りこまれました。

2006年に文化庁が世界文化遺産の追加提案候補を公募したとき、群馬県と富岡市、そして7市町村が共同で「富岡製糸場と絹産業遺産群 ‐ 日本産業革命の原点」を提案。「日本産業革命の原点」という副題のとおり、提案当初は日本の近代化への貢献がポイントだったのですが、会議を重ねるうちに国際的な絹産業史への貢献したことを強調して推薦することになりました。

2012年に世界遺産センターに正式推薦されることが決まり、2013年に受理されました。2014年の国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の登録勧告では、日本側の主張がほとんど認められる形になったそうです。2014年6月、第38回世界遺産委員会で富岡製糸場は正式に世界文化遺産に登録されました。

富岡製糸場に関わった人物

渋沢栄一

新しい一万円札の肖像となり、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公としても注目を集めている渋沢栄一(しぶさわ えいいち)。渋沢は大蔵省の官僚だったころ、富岡製糸場の計画を取り仕切る役割を担っていました。渋沢の実家は養蚕業も営む豪農であったことや、ヨーロッパ各国への渡航経験があったことが任命の一因だったといいます。

渋沢は当時大蔵少輔だった伊藤博文とともに任務に当たり、横浜で生糸の検査人をしていたポール・ブリューナをお雇い外国人として雇い入れました。また、次にご紹介する尾高惇忠は渋沢のいとこであり、学問の師でもあった人物です。2人は子供のころから渋沢の家業を手伝っていて、藍玉を買い付けるために埼玉から群馬、長野近辺を歩いて旅したこともあったため、建設予定地近辺には土地勘があったと考えられています。

尾高惇忠

尾高惇忠

尾高淳忠(おだか あつただ)は、渋沢栄一のいとこで富岡製糸場の初代場長を務めた人物です。富岡製糸場には計画段階から関わっていて、当時の日本ではほとんど知られていなかったレンガや、レンガを接着するモルタル代わりの漆喰などの考案に携わったことで知られています。尾高は場長として工女の教育に力を入れ、一般教養を身につけさせたほか風紀面も厳しく取り締まったそうです。

また、彼の娘である尾高勇(おだか ゆう)は富岡製糸場の工女第1号でもあります。製糸場の工女を募集した当時「若い娘だけを募集しているのはフランス人が生き血を飲むためだ」という噂が流れていたため応募はゼロ。尾高は最愛の娘に製糸場で働いてもらうことで、噂が根も葉もない嘘であることを証明し、工女の獲得に成功しました。

エドモン・オーギュスト・バスチャン

バスティアンの墓地は横浜外国人墓地にある

エドモン・オーギュスト・バスチャンは富岡製糸場の主要な建物を設計した人物です。フランスで船大工として働いていたバスチャンは、横須賀製鉄所の技術者を務めていたレオンス・ヴェルニーに見出され来日しました。横須賀製鉄所は富岡製糸場より前に建てられた木骨レンガ造の建物で、バスチャンが設計したものです。

富岡製糸場の総監督を務めていたポール・ブリューナに設計を依頼されたバスチャンは、横須賀製鉄所の設計を応用して50日で製糸場の図面を完成させたといいます。現在残っている建物でバスチャンが設計したのは、繰糸所、東置繭所、西置繭所、蒸気釜所の4つです。バスチャンはその後も日本に留まったほか上海でもフランス工部局の監督を務めました。

ポール・ブリューナ

ポール・ブリューナ

ポール・ブリューナは、明治政府のお雇い外国人として富岡製糸場の建設や操業に関わった人物です。フランス・リヨンの生糸問屋に勤めていたブリューナは、横浜開港後に来日して居留地で生糸の検査を担当していました。養蚕業に詳しかったため、官営製糸場の建設を計画していた明治政府の目に留まって雇用され「お雇い外国人」となります。

計画・建設の段階では、製糸場の運営に必要なフランス人技術者の雇用や、ヨーロッパ人と比べて身体の小さい日本人のために特注した製糸器械の輸入などを担当しました。富岡製糸場が操業すると工場内の「首長館」に暮らし、1876年まで総監督を務めています。その後はフランスに帰り、上海の製糸工場建設などにも携わりました。

富岡製糸場に関するまとめ

世界遺産・富岡製糸場について、設立目的や世界遺産登録の理由、工場としての歴史などをご紹介してきました。「工業大国・日本」の原点となった製糸場の魅力が分かっていただけたでしょうか。

筆者はこの記事を書くうちに、世界遺産ではなく1つの企業としての富岡製糸場の姿に心惹かれました。世界遺産をこのような視点でとらえられたことが新鮮で、日本近代史を考えるうえで勉強になったと感じます。

富岡製糸場にさらに興味が湧いた方は、ぜひ現地を訪れてみてください。そのときには製糸場の歴史にも思いを馳せてもらえると嬉しいです。

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