足利義輝の愛刀の名は”基近造”
足利義輝の愛刀は”基近造”といいます。この刀は備前国(現在の岡山県)にいた刀工集団「福岡一文字派」の流れをくむ基近が鍛えた刀です。福岡一文字派の刀の特徴は刃文(刀身に見られる白い波のような模様)の華麗さにあります。
美しい刃文を持つ福岡一文字は、武士たちの間で珍重されました。義輝が持っていた”基近造”は、刃文(刀身に見られる白い波のような模様)の表裏がほとんど一緒でつくられた非常に美しい刀、愛用した義輝の美意識が伺えますね。
ちなみに、現在残る福岡一文字の最高傑作は上杉謙信や上杉景勝の刀として知られる「山鳥毛」です。この刀は国宝に指定されています。
足利義輝の最期と辞世の句
足利義輝は最期、三好三人衆や松永久秀に襲撃され亡くなりました。この事件を永禄の変といいます。将軍を操り人形にし、自ら権勢をふるおうと企てていた三好三人衆や松永久秀にとって、幕府復興を掲げ自ら政治を行うとする義輝は邪魔だったのでしょう。
足利義輝の辞世の句は
五月雨は 露か涙か ほととぎす 我が名をあげよ 雲の上まで
永禄の変が起きたのは旧暦の5月でした。その5月に降るのは雨か、それとも志半ばで殺される自分の涙なのか。(そこにいる)ホトトギスよ、私の名前を雲の上まで高らかに響かせてくれ、という内容です。足利義輝の享年は30歳。まだまだ働き盛りで死を迎える無念さが伝わる辞世の句です。
剣豪将軍といわれるだけあり、義輝は圧倒的多数の三好・松永軍に対して善戦します。しかし、最後は敵兵の槍よって殺されたとも、畳をかぶせられ、上から刺されてとも言われていますが壮絶な最期だったのは間違いないようです。
足利義輝の功績
功績1「諸大名の争いを調停した」
将軍になった足利義輝は、積極的に諸大名の争いを調停しました。強大な軍事力を持たない義輝は、諸大名の争いを調停することで幕府や自らの存在価値を高めようとしたのです。実際、義輝の調停により多くの戦いが休戦状態となりました。
東北の伊達氏の内輪もめや関東の北条氏康と里見義堯の争い、武田晴信と長尾景虎の第三次川中島の戦い、徳川家康と今川氏真の戦い、中国地方の毛利元就と尼子晴久の戦い、九州の島津氏と大友氏の争いなどが義輝の仲裁によって休戦となります。戦国大名の争いの仲裁において、足利将軍が一定の役割を果たしたといってよいでしょう。
功績2「政敵の三好長慶を取り込んだ」
義輝は、10年来の政敵である三好長慶を自分の味方とすることで幕府の力を強めようとしました。三好長慶はもともと幕府管領細川氏の家臣です。しかし、細川氏が内紛などで弱体化した時、三好長慶は細川氏にとってかわり畿内で最強の勢力となりました。
義輝が将軍になりたてのころ、義輝と三好長慶は敵対関係にありました。1550年の中尾城の戦いで、義輝は三好長慶に城を攻め落とされ朽木に脱出しています。また、義輝は1551年に三好長慶の暗殺を謀りますが失敗しました。さらに1553年の京都東山の霊山城での戦いでも義輝は三好長慶に敗北します。
もはや力三好を退けるのは不可能だと悟った義輝は、三好長慶を幕府の相伴衆に加え、幕臣とすることで敵対関係を解除します。義輝と長慶の仲は修復されたわけではありませんでしたが、共倒れを防ぐための苦肉の作だったと言えるでしょう。
功績3「長尾景虎(上杉謙信)を関東管領にした」
1561年、足利義輝は越後の実力者、長尾景虎を関東管領に任じました。長尾景虎は越後の守護代でしたが、越後守護の上杉定実が子を残さず死去したため、義輝により越後守護の代行を命じられたのです。
その景虎が関東管領上杉憲政の養子となり、上杉家の家督と関東管領職を相続しました。関東管領は室町幕府の役職の一つで、関東を支配する鎌倉府のナンバー2です。このころ、鎌倉府は実態を失っていましたが、関東管領になることで長尾景虎(上杉謙信)は関東出兵の大義名分を得ます。
景虎は1553年と1559年に上洛し、義輝に拝謁しています。その際、将軍家に対する忠誠を誓っていました。若いころから武勲を重ね、歴戦の勇将だった長尾景虎を京都に呼び寄せるのは、幕府再興を願う義輝の悲願だったといえるでしょう。しかし、皮肉にも関東管領の役職を与えたことにより、景虎は一層関東に縛られてしまいます。