足利義輝と関係性が深い人物
義輝の弟、足利義昭
足利義昭は義輝の同母弟です。義輝は嫡男で将軍の後継ぎとして育てられたのに対し、弟の義昭は仏門に入れられます。これは、兄弟間の家督争いを避けるための措置でした。1565年の永禄の変で義輝が殺害されると、義昭も三好らに命を狙われます。
命の危険にさらされた義昭は、細川藤孝ら義輝の側近たちに救い出され近江に脱出します。その後、義昭は越前の朝倉氏を頼りましたが、朝倉義景は上洛して幕府を再興するのに消極的でした。
そこで、義昭は破竹の勢いで領土を拡大していた織田信長に接近し、彼の力を借りて京都に返り咲きます。しかし、あくまで幕府再興を願う義昭と自身の権力基盤拡大を望む信長とでは目指すものが違いました。そのため、両者は反目するようになります。
そして、1573年に足利義昭は京都を追放されます。義昭と手を切った信長は代わりの将軍をたてませんでした。そのため、室町幕府は義昭で最後となります。
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義輝の死後、弟の義昭を補佐した明智光秀
明智光秀は、義輝の弟である足利義昭に仕えた人物です。光秀は朝倉義景よりも織田信長のほうが上洛に積極的だと考え、義昭に信長を頼るよう勧めました。そして、義昭と信長の仲を取り持ちます。
信長は光秀を通じて義昭の要請を受諾し、軍を率いて上洛します。美濃を平定し勢いに乗る信長軍は、三好三人衆を打ち破り京都を制圧、義昭を征夷大将軍としました。その後、義昭と信長が対立すると、光秀は信長の家臣として生きることを選択します。
大河ドラマ『麒麟が来る』では義輝と光秀の間に接触があったように描かれていますが、実際のところは諸説あり定かではありません。ただ、光秀が義昭に仕え幕府再興に動いたのは事実であり、その意味で義輝の目標と一致していたといえるでしょう。
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足利義輝にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「剣豪塚原卜伝から奥義を伝授された」
足利義輝には、剣豪として知られる塚原卜伝から免許皆伝を受けたという伝説があります。塚原卜伝は17歳のころから全国各地を回り、剣術試合や戦の場でも不覚をとったことがないといわれた剣の達人でした。
卜伝の弟子には、関東の真壁氏幹や義昭側近となる幕臣の細川藤孝などがいます。義輝がいつ卜伝から免許皆伝を受けたのかについては定かではありません。しかし、義輝の最期から察するに、かなりの剣の腕前だったと考えられます。もしかしたら、その剣豪ぶりから、後日、塚原卜伝と関連付けられたのかもしれません。
都市伝説・武勇伝2「天下五剣のうち、4本を持っていた」
天下五剣とは、数ある日本刀の中でも名刀と称される5本の刀の総称です。「童子切安綱」、「鬼丸国綱」、「三日月宗近」、「大典太光世」、「数珠丸恒次」の5本で天下五剣と呼ばれていました。だれがどのようにして天下五剣を選んだかわかりませんが、どうやら明治時代以降に生まれた呼び名のようです。
この5本の刀のうち、義輝は「数珠丸恒次」をのぞく4本を手中に収めていました。そもそも、足利家は将軍家だったこともあり、名刀を集めるのに有利な立場だったのでしょう。それにしても、5本中4本というのはなかなかなものです。