足利義輝とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や最期についても紹介】

「足利義輝ってどんな人?」
「足利義輝が剣豪だったって本当?」

この記事をご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。足利義輝は、室町幕府13代将軍となった人物です。剣豪塚原卜伝の直弟子で、抜群の剣の腕前を持ちました。

ところが、義輝が将軍になった時代は既に戦国時代。室町幕府将軍の権威は地に落ち、京都を含む畿内では下剋上の嵐が吹き荒れていました。義輝は三好長慶ら新興勢力と対決・妥協をしながらも幕府再興に命をかけて活動するも、30歳の若さで松永久秀らに滅ぼされます。

今回は、大河ドラマ『麒麟が来る』で向井理さんが演じ話題となった、剣豪将軍足利義輝の生涯や義輝にまつわるエピソードを紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

足利義輝とはどんな人物か

名前足利義輝
誕生日1536年3月31日
没日1565年6月17日
生地東山南禅寺
没地二条御所
配偶者近衛稙家の娘
埋葬場所不明

足利義輝の生涯をハイライト

義輝の父で12代将軍だった足利義晴

足利義輝は1536年に生まれました。父は12代将軍の足利義晴で、幼名は菊幢丸といいます。父の義晴は管領の細川晴元と敵対していたため、将軍としての地位が不安定でした。そのため、義輝は父ともどもたびたび京都を追われています。

義輝と対立した三好長慶

1546年、彼は元服し義藤(以後、義輝と表記します)を名乗ります。義輝は元服の直後に父から征夷大将軍の地位を譲られ、室町幕府13代将軍となりました。しかし、将軍の地位の不安定さは変わりません。その理由は三好長慶との対立でした。

義輝は長慶を排除しようと暗殺を試みますが失敗。さらに対立が激化します。結局、義輝と長慶の争いは10年に及びました。その間、義輝は諸大名の和睦をあっせんするなどして存在感を高め幕府の力を取り戻そうとします。1588年、長慶と伊勢貞孝が対立すると義輝は長慶を支持し、彼を味方に取り込みました。

ところが、1564年に三好長慶が病死すると状況は一変。将軍を傀儡にしようとする三好三人衆や松永久秀は、独断で政治を行う義輝を排除し、都合の良い人物を将軍にしようと画策します。そして、ついに三好や松永は二条御所を包囲して義輝を攻め滅ぼしてしまいました。

武勇に優れ勇気ある気性の持ち主だった足利義輝

ルイス・フロイスの『日本史』

足利義輝の性格について、宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』の中で次のように述べています。

とても武勇に優れ、勇気ある人だった

たしかに、何度挫折しても京都に舞い戻り将軍権威の復興に取り組む姿は、自らの命を顧みず、幕府再興に執念を燃やす勇気ある人柄を示しています。また、自ら剣を取り戦った姿から武勇に優れた様子をうかがい知ることができるでしょう。こうした点から、フロイスの義輝への評価は的を射ているのではないでしょうか。

イエズス会にキリスト教布教を許可した

足利義輝は1560年にイエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラを謁見(えっけん)します。彼は南蛮渡来の砂時計を献上し義輝に京都での布教を許可してくれるよう願いました。義輝はヴィレラの願いを受け入れ、京都布教を許可します。

ヴィレラは四条坊門姥柳町を拠点とし、その場所を教会として使用しました。ヴィレラが九州に去ったのち、京都布教はルイス・フロイスに託されます。フロイスは義輝を後ろ盾として本格的に布教を進めようとしました。

京都布教のため1576年に建てられた南蛮寺の跡

ところが、義輝が1565年に永禄の変で殺害されると、フロイスは三好らに畿内を追い出されます。その後、義輝の弟である義昭を奉じて上洛してきた織田信長に謁見し、後ろ盾とすることに成功するのです。ちなみに、義輝の死の様子はルイス・フロイスが書いた『日本史』に詳しく記述されています。

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