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巴御前とはどんな人?生涯・年表まとめ【家紋や逸話も紹介】

巴御前とは、源平争乱期に活躍したとされる女性武将です。主に物語に登場する人物である彼女は、実在こそ定かではありませんが、その分だけ濃いエピソードを多数持ち、現在でも創作の題材として親しまれています。

巴御前を描いたとされる後世の絵

しかし創作の題材として親しまれている分、彼女にまつわる逸話は審議定かならざるものが多く、”史実における巴御前”という実像は未だに定かなものが見つかっていないというのが実際のところです。

ということでこの記事では、巴御前という人物の史実性やエピソードなどを、なるべく丁寧に解説していきたいともいます。

巴御前とはどんな人物か

名前巴御前
誕生日不明
1150年代説が有力
没日不明
1240年代説が有力
生地不明
武蔵国説が有力
没地不明
越中国礪波郡福光説が有力
配偶者不明
和田義盛や木曽義仲との説がある
子孫不明
木曾義高や朝比奈義秀との説がある
埋葬場所不明
多数が存在

巴御前の生涯をハイライト

巴御前という人物は、いわゆる一次資料と呼ばれる歴史書には登場しない人物です。そのため彼女の生涯を辿るには、多くの物語を繋ぎ合わせて語っていく必要があります。

巴御前の主君とされる源義仲(木曽義仲)

もっとも古くから巴御前が登場する『延慶本』において、彼女は主君である源義仲(木曽義仲)の幼馴染として登場します。女性の身でありながら非常に力が強く、それでいて美しい容姿だった彼女は、義仲の稽古相手であると同時に便女(びんじょ)としても見出され、彼の配下となったと描かれています。

そのような一面を示すように、『源平盛衰記』においての巴御前は、義仲が参戦した戦における大将の一騎として名が見られ、倶利伽羅峠の戦いや横田河原の戦いなどの名だたる合戦で武勇を振るう姿が描かれています。

銅像の義仲の横には、銅像の巴御前が控えている。

そして、どの物語にも描かれているのが義仲との離別の場面。戦場で追い詰められた義仲は、自身と共に討死しようとする巴御前に対し「生き延びて私の武勇を語り告げ」「最期の時に女を連れていたなどと言われては格好がつかん」と告げて、彼女に落ち延びるよう説得。苦渋の末にこれを受けた巴御前は、「最後の奉公です」として、敵将である御田八郎師重を討ち取って戦場を去りました。

これ以降の巴御前の消息はほとんどの物語に描かれておらず不明ですが、『源平盛衰記』では源頼朝に捕らえられ、紆余曲折の末に和田義盛の妻となったと言われています。

そして義盛が和田合戦で討死すると、巴御前は越中国の石黒氏に身を寄せて出家。戦で散った主君や夫、親や子供たちを弔いながら、91歳でこの世を去ったと伝わっています。

とにかく武人としての逸話が多く残る人物

薙刀と共に描かれるだけあって、武芸に精通していた巴御前。

巴御前という人物を語るには、やはり武人としての側面は欠かせません。主君である木曽義仲の稽古相手として才能を見出されたこともあり、彼女は女性としてというよりは、一角の武人としてのエピソードの方が多く残されています。

特に有名なのは『平家物語』における『木曾最期』と呼ばれる章段のエピソード。義仲に落ち延びるよう厳命された巴は、最後の奉公として敵将を討ち取るのですが、その討ち取り方が彼女の凄まじい武勇を物語っています。

巴が討ち取ったという御田八郎師重は、剛力で有名な武人でした。そんな人物を相手に巴は馬を並走させ、その体に組み付いて馬から引き倒し、そのまま押さえつけて首を斬ったとされています。男性顔負けどころか、並の男性を優に超えるほどの武勇を示すエピソードと言えるでしょう。

他にも『延慶本』では、京都から落ち延びる義仲を追討してきた武者二人を、それぞれ左右の脇で締め上げて首をねじ切ったというとんでもないエピソードも描かれており、いずれの記録でも彼女は武人として多くのエピソードを持っています。

ある偉人も使用した?巴御前の家紋

巴御前の家紋は「三つ巴」と呼ばれる紋様。これは歴史上にも多く見られる家紋である。

『源平盛衰記』において巴御前が使用した家紋は、一般的には「三つ巴」と呼ばれる紋様であり、現在も巴御前が描かれる創作では登場する機会が多い紋様です。

”三つ巴”は、いわゆる”巴紋”と呼ばれる家紋であり、時代を問わず非常に多くの人物が使用しています。戦国時代において長尾氏や宮本武蔵が使用した「九曜巴」や、巴投げの語源となった「二つ巴」等は特に有名です。

また、巴御前が使用した「三つ巴」の紋様も歴史上での使用頻度は高く、有名なところで言えば土方歳三や小早川隆景なんかが、三つ巴紋の亜種に当たる「左三つ巴紋」を使用しています。

現代に描かれる巴御前

多くの創作において、巴御前は勇猛で凛とした女武者として描かれる。

基本的には「物語の登場人物」という側面が強い巴御前は、現代においてのみならず江戸時代などにおいても、様々な創作の題材として親しまれていました。

室町時代の古典能である『巴』や、江戸時代に発祥した歌舞伎の『女暫(おんなしばらく)』などは巴御前を描く典型的な娯楽作品だと言えるでしょう。

現代においては『Fate/Grand Order』に代表されるゲーム作品やアニメーションなどにも盛んに取り上げられ、巴御前という人物は世界的に有名な女性ともなりつつあるようです。

まさかの海外進出など、意外な形での人気の高さも窺える。

また、1981年にはアメリカの作家、ジェシカ・アマンダ・サーモンソンが巴御前を題材にした『Tomoe Gozen』という作品を発表。歴史ものというよりはファンタジーものに近く、大ヒットとは言えない作品ではありますが、少なくとも巴御前の名前が、海を渡って外国にまで広まっているのは事実であるようです。

巴御前の関連人物

日本を代表する女武人とも言える巴御前は、記録の少なさに反して多くの人物とかかわりを持っています。このトピックでは、その中でも有名な人物を幾人か紹介していきましょう。

木曽義仲(源義仲)

巴御前の主君とされる義仲は、巴御前とは切っても切れない重要人物。

巴御前の主君であり、その武勇で平氏との戦いを勝利に導いた人物です。巴御前とは幼馴染の関係であったとも言われ、彼女を側室や愛妾としていたという説も存在しています。

巴御前と同様に武芸で身を立てた人物である一方、平氏を下した後は貴族層と価値観が合わずに次第に孤立。最終的には同門であり従兄弟でもあった頼朝、義経兄弟によって京都から追い落とされ、粟津の戦いでこの世を去りました。

最期の時を迎えるにあたって、巴に対して落ち延びるよう説得を続けるなど、情に厚い人物であったことが記録からは散見され、貴族たちからの覚えは良くなかった一方、部下たちからの信頼は厚い人物であったようです。

和田義盛

巴御前の夫とされる人物だが、その真偽は定かではない。

木曽義仲と離別し、落ち延びた巴が妻となったとされる源頼朝の配下の武将です。巴御前や木曽義仲と同様に、武芸で身を立てた豪傑として記録が残っています。

巴御前の物語においては、義仲と離別した後の夫として描かれていますが、史実におけるそうした記録は一切存在していません。そのためこの婚姻については、物語における創作である可能性が濃厚だと言えるでしょう。

ただし人物像としては「武勇で鳴らした豪傑」「さっぱりとした気性」という部分から義仲に近いところが見られ、義盛も巴のことを高く評価していたと言われていることから、巴御前の夫であった可能性も否定はしきれないというのが現状だと言えます。

源頼朝、源義経

悲劇の英雄と名高い源義経だが、巴御前にとっては違った見え方をする人物でもある。

木曽義仲が京都から追い落とされる原因となった人物たちです。巴御前自身とは直接の関係があるわけではありませんが、彼女にとっては仇敵とも言える人物でしょう。

特に義経は、義仲の敗北が決定的になった宇治川の戦いに大将として参戦しており、義仲の軍勢と激戦を繰り広げたことが記録されています。

頼朝の方も京都では度々義仲と小競り合いを演じていたと記録されていることが多く、関係性としては従兄弟でしたが、仲自体はあまり良いものではなかったようです。

木曾義高、朝比奈義秀

巴御前の子という説もある木曾吉高は、父の死とともに悲劇の最期を迎えた。

巴御前の子であるという説がある人物たちです。その説が正しければ木曾義高は義仲と巴御前の、朝比奈義秀は和田義盛と巴御前の子であるということになります。

ただし両者とも、巴御前ではない女性を母とする説が有力視されているため、厳密に記録に残っている「巴御前の子」は存在していないとされています。

両者ともに巴より先に死没しているとされ、義高は12歳の若さで謀反を疑われて暗殺。義秀は和田合戦に参戦して討たれたという記録こそありませんが、その後の消息は不明となっています。

巴御前の功績

功績1「人外レベルの武勇エピソードの持ち主」

巴御前を語るエピソードと言えば、やはり武芸にまつわるものが大多数を占める。

巴御前という人物と言えば、やはり男顔負けどころか鬼も顔負けの武勇エピソードが何より有名だと言えます。

前述のトピックでも記載した、剛力で有名な敵将を馬から引きずりおろして討ち取っただとか、二人の武者を相手取ってその首を捩じり落としただとか、そうしたエピソードは枚挙に暇がありません。

また、『源平盛衰記』での記載では弓の名手だったことも記されており、まさに武芸においては並ぶ者のない女武者であったことを読み取ることができます。

功績2「女だてらの忠義者」

義仲と巴の間にあったのは、男女というよりは対等な武人による主従の関係だったと言える。

最終的には主君である源義仲と離別し、主君であり幼馴染でもある人物の死を背負って生きることになった巴御前。しかし彼女自身は、決して自分の意思で戦場を離れたわけではありませんでした。

『平家物語』において、巴御前は「落ち延びろ」という義仲からの要請を拒否。自分自身も義仲につき従って討死しようとしていたことが記録されています。しかし義仲もまた退かず、落ち延びるように巴を説得。再三の説得についに折れた巴は「最後の奉公」として敵将を討ち取り、そのまま義仲と離別することになったのです。

落ち延びることを勧められておきながら、最後まで主に付き従おうとした巴御前。そんな彼女が忠義者と呼ばれることに、異論を挟む人はいないだろうと思えます。

功績3「当時としては異例の長寿 …?」

巴御前の最期の地だとされる”巴塚の松”は、現在も名所として親しまれている。

木曽義仲と死別した後の巴御前の足跡は、記録媒体によってさまざまで確かなことは分かっていません。しかし巴御前の落ち延びた後が描かれている媒体のほとんどでは、「尼となって死んでいった者たちを弔いながら生きた」とされています。

特に『源平盛衰記』では落ち延びた後の巴御前の足跡が割合多めに描かれ、彼女は最終的には越中国の石黒氏の下で尼になり、そこで91歳で生涯を終えたとされています。確たる証拠がある記録ではありませんが、これがもし本当であれば、巴御前は武将としては異例の長寿だったと言えるでしょう。

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