巴御前の関連人物
日本を代表する女武人とも言える巴御前は、記録の少なさに反して多くの人物とかかわりを持っています。このトピックでは、その中でも有名な人物を幾人か紹介していきましょう。
木曽義仲(源義仲)
巴御前の主君であり、その武勇で平氏との戦いを勝利に導いた人物です。巴御前とは幼馴染の関係であったとも言われ、彼女を側室や愛妾としていたという説も存在しています。
巴御前と同様に武芸で身を立てた人物である一方、平氏を下した後は貴族層と価値観が合わずに次第に孤立。最終的には同門であり従兄弟でもあった頼朝、義経兄弟によって京都から追い落とされ、粟津の戦いでこの世を去りました。
最期の時を迎えるにあたって、巴に対して落ち延びるよう説得を続けるなど、情に厚い人物であったことが記録からは散見され、貴族たちからの覚えは良くなかった一方、部下たちからの信頼は厚い人物であったようです。
和田義盛
木曽義仲と離別し、落ち延びた巴が妻となったとされる源頼朝の配下の武将です。巴御前や木曽義仲と同様に、武芸で身を立てた豪傑として記録が残っています。
巴御前の物語においては、義仲と離別した後の夫として描かれていますが、史実におけるそうした記録は一切存在していません。そのためこの婚姻については、物語における創作である可能性が濃厚だと言えるでしょう。
ただし人物像としては「武勇で鳴らした豪傑」「さっぱりとした気性」という部分から義仲に近いところが見られ、義盛も巴のことを高く評価していたと言われていることから、巴御前の夫であった可能性も否定はしきれないというのが現状だと言えます。
源頼朝、源義経
木曽義仲が京都から追い落とされる原因となった人物たちです。巴御前自身とは直接の関係があるわけではありませんが、彼女にとっては仇敵とも言える人物でしょう。
特に義経は、義仲の敗北が決定的になった宇治川の戦いに大将として参戦しており、義仲の軍勢と激戦を繰り広げたことが記録されています。
頼朝の方も京都では度々義仲と小競り合いを演じていたと記録されていることが多く、関係性としては従兄弟でしたが、仲自体はあまり良いものではなかったようです。
木曾義高、朝比奈義秀
巴御前の子であるという説がある人物たちです。その説が正しければ木曾義高は義仲と巴御前の、朝比奈義秀は和田義盛と巴御前の子であるということになります。
ただし両者とも、巴御前ではない女性を母とする説が有力視されているため、厳密に記録に残っている「巴御前の子」は存在していないとされています。
両者ともに巴より先に死没しているとされ、義高は12歳の若さで謀反を疑われて暗殺。義秀は和田合戦に参戦して討たれたという記録こそありませんが、その後の消息は不明となっています。
巴御前の功績
功績1「人外レベルの武勇エピソードの持ち主」
巴御前という人物と言えば、やはり男顔負けどころか鬼も顔負けの武勇エピソードが何より有名だと言えます。
前述のトピックでも記載した、剛力で有名な敵将を馬から引きずりおろして討ち取っただとか、二人の武者を相手取ってその首を捩じり落としただとか、そうしたエピソードは枚挙に暇がありません。
また、『源平盛衰記』での記載では弓の名手だったことも記されており、まさに武芸においては並ぶ者のない女武者であったことを読み取ることができます。
功績2「女だてらの忠義者」
最終的には主君である源義仲と離別し、主君であり幼馴染でもある人物の死を背負って生きることになった巴御前。しかし彼女自身は、決して自分の意思で戦場を離れたわけではありませんでした。
『平家物語』において、巴御前は「落ち延びろ」という義仲からの要請を拒否。自分自身も義仲につき従って討死しようとしていたことが記録されています。しかし義仲もまた退かず、落ち延びるように巴を説得。再三の説得についに折れた巴は「最後の奉公」として敵将を討ち取り、そのまま義仲と離別することになったのです。
落ち延びることを勧められておきながら、最後まで主に付き従おうとした巴御前。そんな彼女が忠義者と呼ばれることに、異論を挟む人はいないだろうと思えます。
功績3「当時としては異例の長寿 …?」
木曽義仲と死別した後の巴御前の足跡は、記録媒体によってさまざまで確かなことは分かっていません。しかし巴御前の落ち延びた後が描かれている媒体のほとんどでは、「尼となって死んでいった者たちを弔いながら生きた」とされています。
特に『源平盛衰記』では落ち延びた後の巴御前の足跡が割合多めに描かれ、彼女は最終的には越中国の石黒氏の下で尼になり、そこで91歳で生涯を終えたとされています。確たる証拠がある記録ではありませんが、これがもし本当であれば、巴御前は武将としては異例の長寿だったと言えるでしょう。