巴御前とはどんな人?生涯・年表まとめ【家紋や逸話も紹介】

巴御前にまつわる逸話

逸話1「凄まじい怪力の持ち主だった言われる」

鎧を着た武者が乗る馬。人馬合わせて少なくとも300㎏はあるだろうそれを、巴御前はなんと…?

武勇に関するエピソードを数多く残す巴御前ですが、それと同じくらいに”怪力”を表すエピソードも数多く残されています。

その中でも有名なのは富山県にあったとされる「駒かけの松」のエピソード。俱利伽羅峠への進軍の際、義仲の無礼に腹を立てた巴御前が、義仲を乗っていた馬もろとも投げ飛ばしたというエピソードであり、現在もその舞台とされる富山県戸出地区ではそのエピソードにちなんだ祭りが開かれています。

当時の馬は現在の馬とは異なり、小柄であったことが推測されますが、それでも鎧をまとった武者込みであれば300㎏から400㎏程の重量があったのは間違いないところ。巴御前という人物を有名にした武勇は、こうした怪力から生まれたものなのかもしれません。

逸話2「料理下手だったとも言われるが…」

目を引きこそするが、おもてなし料理としてはちょっと…なメガ盛りご飯。しかし巴や義仲にとってはそれが御馳走だったようで…

武芸や怪力などのエピソードを数多く残す巴御前は、最近ではゲーム作品『Fate/Grand Order』の影響もあってか、”料理下手”というイメージで語られることも多くなっています。

実際、史実に記録された彼女の主君である義仲の食生活は「京都の食事は口に合わないと言って、大根を丸かじりする」「貴族が散歩させていた犬を捕まえ、味噌をつけて焼いて食べる」「おもてなしの料理が現在で言うメガ盛りご飯」と、中々に凄まじいもののように記録されています。

とは言え、巴御前が料理下手であったことの証拠は記録からは読み取れず、しかも頭脳労働中心の貴族と肉体労働中心の武士では、食の好みや量に差が出るのも当たり前だと言えます。

現代基準にアレンジされたキャラクターから歴史に興味を持つのも良い事ですが、史実を語る上では当時の文化や時代背景を考慮し、史実と創作を混ぜ合わせないように注意が必要です。

巴御前の生涯年表

1150年代後半? – 0歳「木曽義仲の幼馴染として登場」

義仲に使える便女として、巴御前は物語に登場する。

木曽義仲の幼馴染

『延慶本』において、巴御前は木曽義仲の幼馴染であり稽古相手として初登場します。

『延慶本』における巴御前は、後に義仲に仕えることになる樋口兼光や今井兼平の妹として描かれ、彼女自身も兄たちに憧れて義仲の家臣を目指すようになったとされているようです。

稽古相手から便女として

幼い義仲の稽古相手となっていた巴御前は、次第にその強い力を見出され、”便女(びんじょ)”として義仲に仕えることを許されます。

これによって義仲の家臣としての立場を得た巴御前は、史実上の記録にこそ名を残していないものの、義仲配下の一騎として様々な戦場を駆け抜けることになりました。

近年の創作においては「木曽義仲と巴御前は夫婦」とする作品も増えていますが、そうした証拠は明確には存在しておらず、あくまでも二人の関係性は主従関係以上のものではないとするのが、資料などから読み取るうえでの通説です。

1181年 – 20代中盤~後半「横田河原の戦い」

治承・寿永の乱において、義仲が活躍した戦いの一つがこの戦い。

義仲が東北方面に勢力を拡大するに至ったこの戦いにも、巴御前は参加していたと言われています。

『源平盛衰記』における記載では、この戦で彼女は7人もの敵将の首級を上げたと言われており、この頃には既に彼女が義仲配下の中でも中核を成す存在だったことが読み取れるでしょう。

1183年 – 20代後半~30代前半?「倶利伽羅峠の戦い」

俱利伽羅峠の戦いで、義仲は優れた戦略家としての一面も見せたと言われている。

俱利伽羅峠の大将騎として戦う

木曽義仲が活躍する代表的な戦である倶利伽羅峠の戦いにも、巴御前は参加していたと言われています。

『源平盛衰記』の記載によれば、この時の彼女の役割は大将格の一騎。義仲の配下の中でも”四天王”と称される実力者たちとほとんど同列に扱われており、そこからも彼女の立場の高さと重要性が読み取れます。

念願の上洛と暗雲

俱利伽羅峠の戦いで平維盛を破る大勝利を収めたことで、義仲たちは京都へ上洛。源氏と平氏の命運はほとんど決されることになりました。

しかし同時に、源氏一門の中で生まれた階級の差による小競り合いもこの時期から増えていくことに。義仲は京都の守護という大役を任されることになりましたが、しかしその小競り合いこそが彼を破滅へと導いていくことになりました。

1184年 – 20代後半~30代前半「木曾殿最期」

粟津の戦いで離別することになった義仲と巴は、二度と出会えることはなかった。

最後の奉公

貴族層との対立を発端として京都を追われることになった義仲たちは、同門である源頼朝、義経たちによって追討され、瞬く間に壊滅していくことになりました。

そして宇治川の戦いに惨敗し、もはや5人ほどにまで減ってしまった軍勢の中、義仲は未だに自分につき従う巴に対して「自分は討死する覚悟だが、お前は女であるからどこにでも逃げられる」「最期の時に女を連れていたと言われては格好がつかない」と、落ち延びるよう説得を試みました。

最初こそ「共に討死させてほしい」と落ち延びることを拒否した巴ですが、何度も何度も説得を繰り返してくる義仲を相手についに折れ、苦渋の末に落ち延びることを承諾しました。

そして最後の奉公として、彼女は追って来た御田八郎師重を組みあいの末に討伐。そのまま戦鎧を捨てて東北の方に落ち延びた巴が、義仲と再会することは二度とありませんでした。

粟津の戦い

主君の討死だけでなく兄も自害。その後の巴の足跡は限られた資料にしか残っていない。

巴御前が落ち延びる中、義仲もまた一時は逃走に成功。しかしその逃走の最中に二人の配下が討たれ、残ったのは義仲とその忠臣であり巴御前の兄とも言われる今井兼平だけでした。

もはやこれまでと悟った義仲は、自害の場所を求めて粟津へ。しかし彼は自害することすら許されず、馬がぬかるみに足を取られたその時に、顔に矢を射かけられて戦死することになってしまいました。

そしてその後、最後まで義仲につき従った今井兼平も自害。義仲の子であった木曾吉高もまた、逃亡を図って12歳という若さで死亡。これによって義仲の一門は途絶えることになってしまいました。

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