シャルロット・コルデーにまつわる逸話
逸話1「シャルロットが最期に望んだこと」
裁判にて死刑を宣告されたシャルロット。そんな彼女が最期の望みとしたことは、肖像画を描いてもらうことと、“あるもの”を見せてもらうことでした。彼女を描いたとされる肖像画は、ジャン=ジャック・ハウアによって描かれ、現代にもシャルロットの美しくも愛らしい容姿を伝えています。
そして、シャルロットが最期に見たがったものというのは、なんと自分自身を処刑するギロチン。執行人であるサンソンが気を使っていさめる中、彼女は無邪気にギロチンを眺め、「折角パリまで来たのだから、少しくらい物見高くなってもいいでしょう?」と返したと言われています。
逸話2「死後にも高まり続けた人気」
処刑されたにもかかわらず、多くの男性を虜にしたという記録が残るシャルロット。その人気は非常に強烈なものだったようで、彼女が処刑されてからしばらくの間、パリはシャルロットの話題屋、彼女のことを称える詩で持ちきりになったとも言われています。
また、山岳派が中心となった革命政府はこの人気を重く見て、シャルロットの人気を失墜させようと彼女の司法解剖を実施。「ジロンド派の男たちと関係を持った淫らな女」として悪評を流そうとしましたが、解剖の結果として処女であることが判明し、更に人気が高まってしまったというエピソードも残されています。
現代においても多数のキャラクター化が行われているところを見るに、シャルロット・コルデーという人物は当時から創作の題材として、非常に人気の高い人物だったと言えるでしょう。
シャルロット・コルデーの生涯年表
1768年 – 0歳「片田舎の貧乏貴族として誕生」
この年の7月、シャルロット・コルデーはフランス王国のエコルシェで生を受けました。
生家は身分としては貴族の家系であり、かつては三大古典詩人の一人であるピエール・コルネイユを輩出した名家でしたが、彼女の誕生当時は既に没落しきった家系であり、シャルロットは決して豊かとはいえない暮らしを送ることになりました。
1781年 – 13歳「母の死により修道女となる」
豊かとはいえないながらそれなりに暮らしてきたシャルロットですが、この年に彼女の母が急死。これによって彼女は、カーンの修道院に入ることになりました。
身寄りのない貧乏貴族の子女は、修道院に入ってその場所で人生を終えるのが普通のこと。古代ギリシャの伝記や哲学書を読むほど聡明で美人なシャルロットもまた、そんな運命を送るのだと、この当時は誰もが確信していたと言えるでしょう。
1789年 – 21歳「修道院の閉鎖」
勃発するフランス革命
この年、とうとうフランス革命が勃発。国王を奉ずる勢力と革命勢力が文武を問わずに衝突を繰り返し、フランス国内は混乱に包まれることになりました。
そしてこの革命によって、シャルロットの運命も激動を見せることになっていくのです。
修道院が閉鎖される
革命がシャルロットに与えたのは無慈悲な試練でした。これまで10年近く生きてきた修道院が、革命政府によって閉鎖されてしまったのです。
これによって行き場を失ったシャルロットは、当初は父の下に身を寄せますが、革命思想に傾倒した父と反りが合わずにそこを出奔。結果的に彼女は、伯母であるブルトヴィユ夫人の下に身を寄せることになりました。
1793年 – 24歳「シャルロットの革命、そして死」
ジロンド派議員との接触
伯母の下に身を寄せたシャルロットは、そこで革命について学び、自信の立場を「共和主義者」として明確化していきました。そしてそんな中、パリでの政争で敗北したジロンド派の議員と偶然接触したことで、シャルロットの運命は大きく動き出すことになったのです。
山岳派の横暴によって多くの人が苦しめられる中、ジロンド派の議員と接触したシャルロットは一念発起。「革命の礎になる」として、山岳派の重鎮であるジャン=ポール・マラーの暗殺を企てることになるのです。
暗殺のためパリへ
7月9日、プランニングを終えたシャルロットは一人で乗り合い馬車に乗り込み、パリを目指します。その馬車の中で乗り合わせた青年に求婚されたというエピソードも残っており、これもシャルロットの美貌を示すエピソードの一つでしょう。
そして二日後、パリにたどり着いたシャルロットはホテルで遺書を書いてから、上等な帽子と包丁を購入。同時にマラーに対する情報収集によって「人民の要望を聴くために門を開けている」という情報もつかみ、彼女の暗殺はいよいよ決行されようとしていました。