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あさま山荘事件とは?概要から原因、与えた影響まで分かりやすく解説

「あさま山荘事件ってどんな事件だったの?」
「犯人グループの連合赤軍ってなに?」
「人質となった女性は現在は?」

昭和の犯罪史に残る大事件のひとつ「あさま山荘事件」。みなさんも一度はテレビなどで警察に包囲される山荘の様子や、鉄球で壁を壊し機動隊が突入していく映像を見たことがあるのではないでしょうか?

突入する機動隊

軽井沢にある「浅間山荘」で起こった事件だったので「あさま山荘事件」と呼ばれたこの事件は、学生運動や武力闘争などの過激な政治活動に身を投じていた10代から20代の若者たちによって引き起こされました。

また事件がきっかけで日清カップヌードルが大ヒットしたり、警察の特殊部隊が編成されるなど大きな影響を世の中に与えました。

この記事では「あさま山荘事件」の経緯と犯人像、事件の影響やモチーフとなった作品などを紹介します。

あさま山荘事件とはどんな事件だったのか?

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事件の概要を簡単に解説すると?

そびえたつ「浅間山荘」

あさま山荘事件とは軽井沢の別荘地にある「浅間山荘」に、テロ組織「連合赤軍」が人質を取って立てこもった事件です。1972年2月19日から2月28日までの9日間に渡って山荘に閉じこもり、機動隊と銃撃戦を繰り広げた様子はテレビなどで生中継され世間を震撼させました。

当時、あさま山荘事件を担当した警視庁と長野県警が行った犯人との交渉は難航し、人質救出作戦は困難を極めました。その結果、死者3名、重軽傷者27名を出す事態となってしまいました。

最終的にはクレーン車で釣り上げた巨大な鉄球で壁を壊して機動隊が山荘に強硬突入し、犯人5人の逮捕と人質の救出を成功させました。

しかしあさま山荘事件が解決した後すぐに「山岳ベース事件」が明るみになり、日本国民は更なる衝撃を受けることになりました。

あさま山荘事件が起こった場所は?

「軽井沢レイクニュータウン」にあるレマン湖

事件の舞台となった浅間山荘は長野県北佐久郡軽井沢町にあるリゾート別荘地に建っています。山荘は事件当時、河合楽器製作所健康保険組合の所有で「軽井沢保養所浅間山荘」という名前でした。

このリゾート地は現在「軽井沢レイクニュータウン」と呼ばれていて、当時は多くのホテルや別荘が立ち並ぶ人気のリゾート地でした。1963年にはニュータウンの目玉として「軽井沢湖」が完成し、その後スイスの有名な湖に見立てて「レマン湖」と名前を変えています。

現在「軽井沢レイクニュータウン」は山奥であることと周辺に競合するリゾート地が出来たことなどを理由にリゾート地としては下火になりましたが、別荘地として現在でも人気のスポットとなっています。

あさま山荘事件での死者数は?

殉職した警官二人の慰霊祭

あさま山荘事件では民間人一人と警察の機動隊員二人の、合計三人の犠牲者が出ました。

犠牲となった民間人は新潟市内でスナックを経営する男性でした。警察の警戒線をすり抜け山荘の玄関までたどり着くと、「文化人」を名乗り人質の身代わりを犯人たちに買って出ました。しかし犯人の一人である坂口弘に狙撃され病院に搬送されましたが、8日後に亡くなってしまいました。

あさま山荘に機動隊が突入した2月28日には、警察官が二人殉職しています。山荘に放水を行うため出場していた警視庁特科車両隊の中隊長であった高見繁光警部と、第二機動隊隊長の内田尚孝警視です。

機動隊員のヘルメット

当時警察は現場の指揮系統をはっきりさせるため、一目で隊長・副隊長が判別できるようなヘルメットを採用していました。そのため犯人たちにも階級の高い警察官を狙いやすくしてしまったのが、警察からの犠牲者を出してしまった理由です。

事件が起こった原因は?

赤軍派と革命左派のリーダーによる主導権争い

森恒夫と永田洋子

犯人グループである連合赤軍は「共産主義者同盟赤軍派」と「日本共産党革命左派」が統一して結成されたという経緯があります。そのため赤軍派のリーダー森恒夫と革命左派のリーダー永田洋子の権力争いが統一直後から起こっていました。

革命左派が所有していた銃器を手中に収めたい森恒夫は永田洋子に対して高圧的な態度で臨みますが、一歩も引かない永田は銃器を渡さずどちらも主導権を握りきれずにいました。

その結果として相手より優位に立つためにより過激で暴力的な思想になっていった結果、山岳ベース事件が起こることになります。

山岳ベース事件

山岳ベース事件を伝える新聞記事

当時の左翼政治団体には「総括」と呼ばれる政治活動を振り返り、反省点や改善点を見つける思考法がありました。

しかし連合赤軍内で行われていた総括は、対象者のためという名目で、より批判的に意見を行うものに変わっていきます。そして森と永田らは暴力を用いてより強い反省を求めるようになっていったため、実質的リンチや粛清が展開されるようになりました。

総括を言い渡されたメンバーは森と永田に逆らえない他のメンバーにより激しい暴力を浴びせられました。その後、食事も与えず極寒の屋外に縛り付けたり、暴力による内臓破裂などが原因での死亡者が後を絶たず、最終的には12人のメンバーを死に至らしめました。

犯人グループの連合赤軍とは?

過激なテロ組織

過激なテロ組織イメージ

連合赤軍は1971年から1972年にかけて活動した左翼的思想を持つ日本のテロ組織で、「共産主義者同盟赤軍派」と「日本共産党革命左派」の組織が1971年7月15日に統合して誕生しました。

しかしメンバー内で起こった「山岳ベース事件」によって内部崩壊を起こしていた連合赤軍は、脱走者や逮捕者が増え続けメンバーの人数は減る一方でした。

最終的にあさま山荘事件に関わった坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久の5人が逮捕されると、残されたメンバーも次々出頭しメンバー全員が逮捕され連合赤軍は崩壊しました。

極端に左翼的な思想

警官隊と衝突する新左翼団体

戦後、日本共産党は共産主義の実現を目指し賛同する学生党員らとともに、暴力を用いて敵を打ち倒す「武装闘争」を掲げて活動していました。しかし1955年に行われた「第6回全国協議会」で武装闘争路線を転換し、暴力で革命を抑圧しない限り運動も暴力を用いないという「敵の出方論」を採用します。

それに不満を募らせた人々が集まり武装闘争路線を継承する「新左翼」が誕生し、いくつかの団体が組織されます。連合赤軍もそんな新左翼団体のひとつでした。

さらに新左翼の中でもより過激な思想を持ち実力行使も辞さない一部の組織は「過激派」と呼ばれ、日本国内だけではなく海外でも暴力による革命を唱えて危険なテロ行為を行う組織へと変貌していくことになります。

人質となった被害女性について

219時間(約9日)も監禁

あさま山荘事件の人質となったのは夫と二人で浅間山荘の管理人をしていた31歳の女性で、人質となってから無事保護されるまで約9日間に渡って犯人たちに監禁されました。

犯人グループが山荘に侵入した時、夫は宿泊客を連れて外出していたため山荘には女性一人でした。犯人グループは「逃げたり騒いだりしなければ危害は加えない」と女性に告げ人質にします。

そして1972年2月28日に機動隊が突入し女性は無事保護されます。監禁された時間は延べ219時間にも及び、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録となりました。

事件後の被害女性について

人質救出を伝える新聞記事

人質となった女性は救出され病院に入院している最中に取材を受けます。記者に人質となっていた間のことを聞かれた女性は「犯人グループは自分を大切に扱ってくれた」「食事を与えてくれた」と、犯人たちとの生活を語りました。

するとマスコミはあたかも女性が犯人たちと仲良く過ごしていと受け取れるような記事を書いたのです。このことが原因で女性はマスコミの報道に不信感を抱いたと言います。

この記事によって女性への同情は激減し、代わりに「犠牲者も出ているのになんて人質だ」と怒りをあらわにした脅迫文まで届くようになります。人質だった女性はこれらのマスコミの記事は事実無根だと語るための記者会見を開いたあと、マスコミとの接触を拒むようになりました。

事件の経緯

1972年2月4日ー山岳ベース事件によってアジトから逃亡

沼田市迦葉山で見つかった迦葉山ベース

「総括」と呼ばれた集団リンチによる犠牲者が出た1971年末の山岳ベース事件以降、連合赤軍の内部は最高幹部であった森と永田の横暴によって崩壊の一途を辿っていました。同時に連合赤軍の足取りを追っていた350人の捜査員を動員した警察の包囲網は連合赤軍のメンバーに迫りつつありました。

メンバーたちは当時の拠点としていた榛名ベースから迦葉山ベースに移ると、森と永田は資金調達のためベースから離れ東京に向かいます。その隙に耐えきれなくなったメンバーたちが次々と脱走し始めたのです。

残されたメンバーは脱走したメンバーが警察を引き連れて戻ってくるのではないかと考え、さらにアジトを移すため妙義ベースに向かいます。森と永田は東京からの帰路の途中で山狩りをしていた警察に包囲されると、格闘の末逮捕されます。

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