「あさま山荘事件ってどんな事件だったの?」
「犯人グループの連合赤軍ってなに?」
「人質となった女性は現在は?」
昭和の犯罪史に残る大事件のひとつ「あさま山荘事件」。みなさんも一度はテレビなどで警察に包囲される山荘の様子や、鉄球で壁を壊し機動隊が突入していく映像を見たことがあるのではないでしょうか?
軽井沢にある「浅間山荘」で起こった事件だったので「あさま山荘事件」と呼ばれたこの事件は、学生運動や武力闘争などの過激な政治活動に身を投じていた10代から20代の若者たちによって引き起こされました。
また事件がきっかけで日清カップヌードルが大ヒットしたり、警察の特殊部隊が編成されるなど大きな影響を世の中に与えました。
この記事では「あさま山荘事件」の経緯と犯人像、事件の影響やモチーフとなった作品などを紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
あさま山荘事件とはどんな事件だったのか?
事件の概要を簡単に解説すると?
あさま山荘事件とは軽井沢の別荘地にある「浅間山荘」に、テロ組織「連合赤軍」が人質を取って立てこもった事件です。1972年2月19日から2月28日までの9日間に渡って山荘に閉じこもり、機動隊と銃撃戦を繰り広げた様子はテレビなどで生中継され世間を震撼させました。
当時、あさま山荘事件を担当した警視庁と長野県警が行った犯人との交渉は難航し、人質救出作戦は困難を極めました。その結果、死者3名、重軽傷者27名を出す事態となってしまいました。
最終的にはクレーン車で釣り上げた巨大な鉄球で壁を壊して機動隊が山荘に強硬突入し、犯人5人の逮捕と人質の救出を成功させました。
しかしあさま山荘事件が解決した後すぐに「山岳ベース事件」が明るみになり、日本国民は更なる衝撃を受けることになりました。
あさま山荘事件が起こった場所は?
事件の舞台となった浅間山荘は長野県北佐久郡軽井沢町にあるリゾート別荘地に建っています。山荘は事件当時、河合楽器製作所健康保険組合の所有で「軽井沢保養所浅間山荘」という名前でした。
このリゾート地は現在「軽井沢レイクニュータウン」と呼ばれていて、当時は多くのホテルや別荘が立ち並ぶ人気のリゾート地でした。1963年にはニュータウンの目玉として「軽井沢湖」が完成し、その後スイスの有名な湖に見立てて「レマン湖」と名前を変えています。
現在「軽井沢レイクニュータウン」は山奥であることと周辺に競合するリゾート地が出来たことなどを理由にリゾート地としては下火になりましたが、別荘地として現在でも人気のスポットとなっています。
あさま山荘事件での死者数は?
あさま山荘事件では民間人一人と警察の機動隊員二人の、合計三人の犠牲者が出ました。
犠牲となった民間人は新潟市内でスナックを経営する男性でした。警察の警戒線をすり抜け山荘の玄関までたどり着くと、「文化人」を名乗り人質の身代わりを犯人たちに買って出ました。しかし犯人の一人である坂口弘に狙撃され病院に搬送されましたが、8日後に亡くなってしまいました。
あさま山荘に機動隊が突入した2月28日には、警察官が二人殉職しています。山荘に放水を行うため出場していた警視庁特科車両隊の中隊長であった高見繁光警部と、第二機動隊隊長の内田尚孝警視です。
当時警察は現場の指揮系統をはっきりさせるため、一目で隊長・副隊長が判別できるようなヘルメットを採用していました。そのため犯人たちにも階級の高い警察官を狙いやすくしてしまったのが、警察からの犠牲者を出してしまった理由です。
クイズの正解画像の人物は坂東國男ではなく植垣康博です
紛らわしいので修正をお願いします